自分がやっていることの意味を理解していないエンジニアはいない

以前も飾りじゃないのよCAPTCHAは 〜前代未聞のCAPTCHAもどき触れられていましたが三井住友カードの素晴らしいCAPTCHA*1のお話。三井住友カードのCAPTCHA風無意味画像は月替わり?

日替わりか? 週替わりなのか? と気にかけていたが、いつ利用しても変化がなく、同じパターンが使われていた。それが、9月25日に利用した際に、今度はピンク色の背景の別のパターンセットに切り替わっていた。そしてその後から今日まで、同じピンク色バージョンが使われている。
〜中略〜
これでオーケーと思ってやっているなら重症だ。どうしたらこんな事態になるのだろうか。意固地な責任者が原因なら首を切らせるほかないのでは?

そもそも、CAPTCHAを使用すること自体、色盲(色覚検査のような画像のCAPTCHAが判別できない)・全盲(普段読み上げソフトで頑張っている)の人々を排除するものです。使うとしたら無料登録制のWebスペースのような登録に時間というコストが掛かる代わりに報酬(Webスペース)が得られるものに対してのみ適用すべきものです。生活に直結するものに適用した場合、前述のような人を切り捨てることになります(個人情報的にクリティカルなサイトは代理の人にやってもらうというわけにはいかないでしょう。将来的に)。ユーザビリティーを犠牲にするものであるから、明確なポリシーを持って使用して欲しいものです。
それなのにこれですよ。その犠牲が欠片も役に立っていない。ただでさえ画像認識技術はどんどん進化して、次第に役に立たなくなっていくCAPTCHAが続出するご時世、それでも使う覚悟があるなら何故ちゃんとやらないのか。
仮にエンジニアと名のつく仕事をしているのであれば、自分のやっていることが何かを理解して仕事をすべきであるし、周囲をウォッチしているべき。製造業だったら(つまり形のある製品だったら)確実にPL法の対象となるようなものを作ってお金を貰うのはそれが善意から出たものであれ、エンジニアとして失格です。もちろん、程度の大小はあると思いますが…。きっとこれはユーザーの人がわけもわからずごり押ししているんだ。そうに違いない。そう思わないとやってられないです。これを作っているのはエンジニアではありません。
それにしても同じグループ会社なのに銀行と比べてこの有様。ユーザー部の人を派遣してもらったほうがよいのではないか(システム部はたぶん派遣しても無駄)。もともと業界的にも同じ金融の中では銀行に比べてセキュリティー意識が数段低いカードのサイトですが、もうそういうご時世ではないことをそろそろ本気で考えるべきなのではないかな*2

*1:人間にしか判別できないと思われる画像を使用して認証キーにすることでロボットなどのソフトウェアによる自動登録や荒らしを抑制する仕組み。http://ja.wikipedia.org/wiki/Captcha

*2:多分、そういう意識で次期システムが開発または検討されていることとは思います。ここ何年かがシステム刷新期のはず。

成果主義への違和感の正体

これか。レジデント初期研修用資料 凄いのにそう見えない人
もちろん、透明じゃなくても有能で必要不可欠でしかも評価されない人というのもいますが。こういう兵站を担当する地味な文官がいて初めて武将が営業・現場の荒波に出て行けるんですよね。日本的な経営の良さと言うのはこういうところにあるはずです。品質管理方面もそんな風にやって欲しいものです。決められたこと(ISOとか)を押し付けてくるだけでは現場は耐えられません。

大前研一のあまりの無知に愕然

週刊ポストで「ビジネス新大陸」の歩き方と言うコラムを連載している大前研一。言わずと知れた、マッキンぜー日本支社長をやってからコンサルタントなんかをやって偉そうにしている人だ。わりとIT系の話を好んでするのだが、今週のコラムをちらっと見て(別に普段読んでいるわけではない)愕然。カード事業のこれからの勝ち組論みたいなのを展開しているのだけど、まあ、最近の話の流れからし電子マネーの話になるのはわかる。互換性の問題や統合(というか共用化か)の問題はホット。ところが。

電子マネーカードの共用化は、Edy以外は難しくない。すべてソニーFelicaという非接触ICカード技術だから〜

おい。

また、同じソニーで方式の違うFelicaEdyを出しているのも中途半端でいただけない。もし5〜6年前のソニーのトップにリーダーシップとビジョンがあれば、どちらかに絞って世界の電子決済を制することも夢ではなかったと思う。

電子決済とICカード電子マネーを混同している時点でもはや聴くに値しない言説であることは言うまでもないが、Felicaが何であるか、Edyがなんであるか*1、全くわかっていない。Edyが登場して何年経っていると思っているのか。Felicaおサイフケータイに使われていて、大抵Edyのソフトが最初から入っているのも知らないのであろうか。というか、ICカードを小銭代わりに使ってみちゃったりしたことはないのだろうか。FelicaICカードとしてのハードの方式でEdyがブランドというか、実際の決済側の方式すなわちソフト側の方式であることくらい、IT業界の人は大抵知っている。
彼はこのようなちょっと調べれば3秒でわかるような事実誤認をするような人物だということをよく把握した上で書いたものを読むべきであろう*2。これを読んで発言して高校生の息子にバカにされる中小企業の経営者の姿が目に浮かんでならない。

私にいわせれば、異なる企画が乱立している現状は、各企業のビジョンとリーダーシップの欠如にほかならない

デファクトスタンダードという言葉も御存じないようである。なぜ香港のオクトパスカードを引き合いに出すのか。行政がリーダシップを取らない限り、勝ち残ったものが標準となるのが自由経済市場というもので、これを無駄と言ってしまったらあなたの仕事はない。統一しようとしている現状に前向きな提言なんぞはできないのか。

*1:http://arena.nikkeibp.co.jp/qa/yougo/20040907/109397/

*2:ちょっと検索すればいかにソースに当たらないで曖昧な自分の記憶や思い込みで記事を書いているかの例はいくつも出てくるわけですが

三国志1〜6 / 北方謙三

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三国志〈2の巻〉 三国志〈3の巻〉 三国志〈4の巻〉 三国志 (5の巻) 三国志 (6の巻)
最初に北方三国志が書かれると聞いたときには正直ピンと来ませんでした。ハードボイルドな三国志? しかし、読んでみると意外と文体とマッチしているものです。
いわゆる三国時代前後の出来事の隅々を書くわけではなく、主要な人物の生き様に焦点を当てて行きます。北方先生お得意の創作された人物も、ここでは人々の行動する意味を補強する登場人物になります。そう、北方三国志は、みんなが知っている物語の流れについて、何故、人物たちはそういう行動を取ったのか、結果として何が起こったかを詳細に描き出しているのです。軍人として行き、軍人として死んだ呂布。ただの乱暴ものではない張飛。皇帝を敬う荀紣。etc..。みんなが知っている有名エピソードも有名であるがゆえに(読んでいる人も知っている前提で)省かれ、後に触れられることがある程度だったりします。そんなスピード感でエピソードはどんどんかっとんで行きますが、全13巻。1〜6巻までは小勢力を保ったまま耐えに耐える劉備袁紹と乾坤一擲の勝負に挑む曹操、南で勢力を確立する孫家を描く前半戦。そして劉備臥竜を得て時は舞台は赤壁に…。長さを感じさせないテンポのよさで進んでいきます。
創作された人物が気にならなければ、人々の動きに納得のいく流れになっています。三国時代を俯瞰して眺めるにもいいと思います。

世迷いごとを声高に叫ぶ評論家に価値はあるのか

http://homepage.mac.com/naoyuki_hashimoto/iblog/C478131471/E20061002165618/index.html
著作権という制度が今どういう批判に晒されているかを踏まえたうえで、正論を叫んでいるのであればまだ理解は可能であるし、「ああ、旧来の利権にしがみついている業界側の人なんだなあ」との哀れみの視線で見ることもできるのですが。
そもそも、再販制度で保護されている業界において、万引きの一番の被害者は小売店であり、立ち読みされたらまあ利益にはならないけど万引きは明らかに損害。それを同列にする時点で作家の損害というお題目がいかに浅薄であるかわかろうものです。
大体、芸術の価値は売れることが第一ではないわけであるからして、湯川女史が問題視し(というより心配ですかね、飯の種の)ているのは文化の衰退ではなく利権構造の変化だと思います。簡単に踊らされるのも大衆ですが、一方で、本当にいいものを最後に残していくのも大衆です。その場限りのマーケットにおける成功が文化の発展を約束しているわけではない。音楽業界のこの15年くらいの変遷を見てきていて、今何が残っているかをわかっているのであれば、決してこんな話はしないと思うのですが。売れないからよいものを出そうとしないというのは芸術家の態度ではないですよね。売れ線を狙うことを否定しているわけではないですが、売ること自体が目的になってしまったとき、それは文化ではなくて風俗だよね。
しかし、本や雑誌が国家的財産って。国民的というのであればまだわかります。選ぶのも捨てるのも国民。

三国志7、8 / 北方謙三

三国志〈7の巻〉
三国志〈8の巻〉
さて、赤壁。圧倒的な兵力を抱える曹操。敗れたとはいえ勢力を保ち、呉を利用しようとする劉備曹操を破り、益州を得て天下二分を目指す孫権周瑜。ついに長江で激突します。妙にさわやかさんな周瑜と風を呼ぶために祈ったりしない普通の人間な孔明の心の交流が清清しい。ケレンに満ちた記述が一切ないのも北方三国志の特徴です。芝居がかっていないというか、有名エピソードでも過度に感傷的なものはばっさりと切り捨ててしまいます。関羽曹操見逃したりとか。所詮三国志演義も小説ですしね。赤壁で敗れた曹操の逃避行とその追跡が妙にリアル。命からがら逃げ帰った曹操、ようやく天下への足がかりをつかんだ劉備。志半ばで倒れた周瑜。出来事よりもそれぞれの想いに重心をおいて語られていきます。
荀紣曹操の皇帝の扱いにおける対立はここに到るまでずっと書かれてきたことによって結末に説得力があります。また曹操がずっと持ち続けている劉備への複雑な思いがここでまた更に大きくなります。天才でありながらコンプレックスを抱え続ける曹操というのもなかなか面白いですね。
さりげなく登場し、華々しい活躍の場を貰えず、しかし存在感を残して消えていった龐統が可哀想。しかし、その死も北方三国志では後の展開の伏線となっていきます。

携帯で読みにくい!携帯用ページ

携帯ではてブからサイトを読もうとすると、非常に読みにくかったり(デザイン的に)、全く読めなかったり(エンコードのせい?)、意味がなかったり(YouTubeの動画とか見れないし)で結構なページが実質読めないわけですが、ブログサイトなんかは結構ちゃんと対応していたりして読みやすいものが多いです。しかし、携帯ブラウザは所詮おまけ機能に毛が生えたくらいのものですからあまり便利とは言いがたい。僕の使っている携帯は履歴で戻れないから、ちょっとリンクを辿った跡に元のページに戻るのは大変です。で、今までgooブログは記事が細切れになってめんどいなーと思ってたらWindows Live Spaceのブログがまた細切れ過ぎて大変うざかった。どちらもある一定の文字数でぶった切り。どのくらいが適正かと言うのは結構評価が難しいとは思いますが、切るタイミングを段落ごとにするくらいはすぐできそうな気がします。いずれにせよ、開発している人はろくに使ったことがないんじゃないかな。

評価されるべき人は他にもいるのではないか?

成果主義への違和感の正体の続きみたいなものですが、客観的な指標を評価の軸にすると数値にならないような部分がぽろぽろ漏れていくように思えます。
例えば、その人自身の本来の職務ではそれほど有能ではない(むしろ足を引っ張る部類に入る)けれど、なぜかいるだけでみんなのやる気や理解が上がるムードメーカー的な人。少数精鋭のときは無駄でしょうがない存在ですが、チームの規模がある程度になるとこういう人がいるのといないので実際に仕事の質が変わったりもします。しかし、生産性とかバグの数のみで評価しなければならない場合全く評価できない。評価の対象・指標が現場に必要なものになっていないと評価されないわけです。チームのバランスをとるために必要な人材と言うのは画一的ではダメですが、ムードメーカーや宴会部長が必要以上に多くなってしまってもいけないので難しいところです。もちろん、本来の職務で有能さを持っているのが理想ではあります。
今の成果主義というのは、人件費削減の流れの中で出来てきたきらいがありますので、長期的な視野での評価はやりづらいし、仕事の枠が完全に決まっている人をプラス評価するのも難しい。一方で、マイナス評価をするのは簡単です。個人に限らず、ビジネス自体の評価も短期で結果が求められる方向にシフトしていっていますが、真に戦略的な経営は短期的な視点も長期的な視点も両方持っているはずです。しかし、現場の指揮官が短期的な結果しか求められないのであれば、(一時的にマイナスに耐える必要があるような)長期的なビジョンをどうやって実現するのでしょうか。*1
外資系最大手IT企業が日本での裁量権をほぼ失って本国から人が送り込まれてくるが、現状に合わないグローバルというなのプロセス押し付けを現場に強要している現状があります。きっとその人は任期中に数字をあげてしかし今まで積み上げてきた土台を食い荒らして帰っていくんだろうな。

*1:ベンチャー企業が新しいプロセスを生み出し、大企業が買収すると言うのがその流れの一つかもしれません

三国志9 / 北方謙三

三国志〈9の巻〉軍市の星
蜀を取り、戦略が見えてきた劉備。ますます劉備へのコンプレックスを深める曹操。陰険な性格が出てきた孫権諸葛亮の戦略により、魏へ攻め込む蜀軍。その結末は、といったところです。史実では蜀に属してから輝きを失った馬超のその理由。関羽に襲い掛かる悲劇とは。
それにしても、呉ファンには読ませられない孫権のやる気のなさ。陰険さ。諸葛亮登場までは曹操がほぼ主人公でしたが、その後は諸葛亮を中心とした蜀が話の焦点になり、呉は結局のところ周瑜をめぐる一幕以外は外野として劉備の邪魔ばっかりしているように見えてちょっと寂しい。
鍼治療描写が大好きな北方先生、読んでるとすごく気持ちよさそうでうってもらいたくなってしまいますね。

啓蒙は必要だけどたぶんそれ以前の問題。

ハッカーの金鉱脈「SQLインジェクション」の正体って金鉱脈はあんまりだ。普通*1に作っていたらありえない脆弱性。しかし、こうやって啓蒙しなくてはならないほど、認識が足りない。もちろん、こういう記事を見ている人はまだマシなほうで。セキュリティーが誤った方向で厳しくなって、例えば現場でインターネットが見れない(Webアプリ作ってるのにね)なんてところも多くなってきて、そうすると目にする機会も更に減ると言う悪循環。もちろん健全な現場であればこの辺の基本的なことは厳しく言い渡させるわけですが、とはいえ一人一人の実装の隅から隅まで本当にわかっている人がレビューできるわけではないし。Webアプリケーションを作るときの研修セットでも作ってそれを受講していないと作らせないとかそんなのでもしないと結局のところ知れ渡らないのではないか。
SOX法の解釈のしようによっては作らせた人の責任になったりしないのかね…?

*1:ここでの普通は世間一般的に「これはやっておかなければならない」最低限のセキュリティー対策をしているということ

ラーメン二郎 高田馬場店

ちょっと馬場に用事があって、時間もあって腹も減ったので行って見ました。かつては本店で毎日食ってたのですが、さすがに最近はあまり二郎系のお店にも行っていません。
ざっと感想

  • 小にしても量多すぎ。ミニだとトッピングできないし
  • 盛りが上下方面に多すぎ。もう少し大きいどんぶりにしようよ
  • 野菜がもやしばっかり。後の人はわりとキャベツ大目だったけど…
  • ブタが細切れ過ぎ
  • テーブル席に持ってくるとき垂らしすぎ。床が二郎スープ床になっとる…

とまあ、気になった点を上げてみましたが、結局完食するのにすごい苦労したと言うことでした。まだ腹があまり減らん。味はまあまあでした。

続・大前研一

これを見てください。2003年9月のメルマガ。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 
 ICカードとITを組み合わせた街づくりエリアプラットフォームを構築
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 
1)横浜・湘南パスって? 
(中略)
スイカでその利便性が実証されたICカード。「横浜・湘南パス」はスイ 
カと同じ「フェリカ」方式を採用。
(中略)
ICカードの「横浜・湘南パス」には、電子マネーEdy」、「OMC/VISA」
のクレジット機能等を搭載。

これはさあ、もう無知とかじゃなくて、老人ボケとしか思えないよね*1。どうせメルマガのこういうところはゴーストライターというかスタッフに書かせてるんだろうけどね。現代社会のグルって人を煙に巻いて誤魔化すからですかね。3年でこんな重要な話を忘れているんだったらそれはそれでどうしようもない話です。

追記:
今週の週刊ポストもすごい。トヨタのブランド戦略の誤りを戦術的に間違いだと言う分析(つまり、戦略ではない)をしているようにしか読めませんでしたが、その中で、トヨタの販売チャンネルが5つで、更にレクサスを足そうとしたのが間違いと述べております。ビスタがネッツに統合されてはや2年が経とうとしている今日この頃ですが、5−1は4でありますよ。

*1:つまり3年前は自分でちゃんとこういう風に書いておきながら、今、全く違う(事実に反する)ことを言っているという事

最近炎上中の無断リンクネタの歴史について軽く

高木さんところの電凸が最近面白くて仕方がないわけですが、そもそも無断リンク禁止ってなんだろう。

Web黎明期

httpすげーよ! ftpでファイル持ってきて閲覧用のソフト用意してとかしなくてもそのまま読めるよ。しかも、参考文献のリンクとかから他のページに飛べるよ。素晴らしい!!!1!11。無断リンク?何それ?リンクしてナンボなのがhttpでしょ
無断リンクと言う概念無し

Win95時代(リンク集時代)

カウンター上げるためにYahoo!様掲載してくださいお願いします。相互リンク大歓迎。無断リンク隠しページにでもしたら?
無断リンクの概念が出始める。アングラページは隠しページを多用。トップページリンクが基本。

Win98時代(検索エンジン時代初期)

無断リンク著作権侵害です!! え?違うの? でも、リンクがいやな人だっているんだから勝手にしないで下さい。え?検索したら見つかる?じゃあどうすればいいんですか!!
⇒技術者じゃない人&技術を理解するつもりの無い人がインターネット上に大挙して押しかける。現実の感覚を間違ったネットリテラシーとして持ち込む人が増える。無断リンク厨、ネットマナー厨、著作権厨など多数出現。一方でフレーム内に別のページをリンクしてさも自分のところのページのように見せる手法は非難される。ディープリンク批判とか

Win2000時代〜現在(Blog時代)

Permalinkで動的ページもリンクしよう!トラックバックで繋がろう!静的ページなんて飾りですよ!
⇒リンク集リンク切れ多発。アンテナが流行る。Blogが出てくる。Google様のページランク上がってナンボ。SEOのあざといテクニック。白地に白文字最小フォントとかアホかと。BMWのページとかがぐぐる様のお怒りに触れて出てこなくなったり。良質の静的ページが更新されなくなっていく。まとめサイトWiki一色。

無断リンクがいやな人のためのテクニック

誤解してはいけないこと

  • 無断リンク著作権違反ではない
  • 「URLを隠す」のは本質的には全く意味がないし不正アクセスにもならない
  • リンクは信頼出来るサイトからなされるべき⇒リンクが張ってある=許可を取っている(ここが誤解)=信頼できるという勘違いが発生する。無断リンク禁止をうたうより「このページにリンクされているからといっても信用してはならない」と注意喚起することが有効(by 高木さん)

大体、インターネットに文書を公開しておいて、リンクするなと言う主張をすることは、出版して本屋に置いたけど著者の許可無くして購入しないでくださいというくらい無茶な話であります。自費出版して知り合いにだけ配ると言う行為をしたいのであれば、流通に乗せる(つまりhttpでアクセスできるところに置く)のではなく、他の手段でやって欲しいものです。無料スペースだからアクセス制御できないんですとか言うのはただの甘えです。

ネットの大海に、いざ漕ぎ出さん

昔はやっぱり向こう岸の見えない果てしない大海原で、右も左もわからず、人食いザメがうようよしている中に小船一艘で繰り出すような、そんな雰囲気があったんだと思います。僕は大学入った頃、ちょうどNetScapeの2が出たころで、当然Windows端末なんかは3.1でWinsockも入っているかどうか。数少ないWorkstationのコンソールからWWWを見てすげーと思っていました。その昔からNetNewsなんか生息していてfjでもまれたような人からするとNet界のモラルも堕ちたものだぜなんて思っていた時期かもしれませんが、それでもなお、この時期にインターネットを触ろうとなんてする人はある程度専門知識を備えた、仕組みを含めて学ぶ意欲のある人が大半だったと思います。あとエロ。WWWは船で漕ぎ出す代わりに飛行機が登場したようなものです。まあ、一般人は乗りませんな、最初は。
Win95時代はそれでも一般的にはインターネットに接続するということ時代がまだ不自由でした。いうなれば、パスポートを発券してもらう敷居も高ければ渡航費も高い。インターネットに繋げることがそれなりの技術だった。既にネチケットとかメールのお作法とかは話題になっていたし、相互リンクという古き良き文化もあった。何せYahoo!しかないんだからユーザーが自らコミュニティーを作っていかなければならなかったわけです。ただ、逆にリンクを辿れない=辿りつかないということでもあったから、閉じられたコミュニティーが一応機能していたのです。この中において、無断リンクお断りという言葉はある程度の効力を持っていましたね。何しろ、そのリンクさえなければほとんどの流入を避けられるのですから。今やハワイの公用語は日本語ですと言うくらい渡航が当たり前になっちゃったものの、デリカシーのない観光客として糾弾されたり、怪しげな裏路地に近づいて襲われたりしてしまう。
インターネットが一般的になるにつれ、その便利さだけがクローズアップされて、基本的なことが理解されないまま人口だけが増えていきます。もっとも大きな誤解は「自分が世界に繋がっている」という認識ではないでしょうか。本当は「世界が自分に繋がっちゃってる」のです。つなげた瞬間、こちらの主体性に関わらず、世界中からアクセスされる対象になるということです。古き時代はそれでもしかし、一方通行のアクセスが成り立っていたのですが、過剰なOSの機能、スパイウェア、ウイルスとその侵食範囲はローカルのマシンにまで広がってきています。検索エンジンが高度化し、自動的にページがキャッシュされ整理されていく現在、パブリックなスペースに文書を置くと言う行為がどのくらい取り返しのつかないことか。一見敷居が低くなったように見えるネットの大海ですが、過去から続く海上の荒波はもちろんのこと、上空を行く飛行機をも捕らえようとするバミューダトライアングルみたいなものがどんどん増えているのです。知らなかったでは済まないことがいつかやってきます。自己防衛は生き物の本能としてあると思いますが、肉体から切り離された仮想現実という認識を抱いている限りはその機能にはスイッチが入らない。目覚めなければならないのです。
無断リンクお断りと言う文化のようなものは古き(良き?)時代は機能していたというだけの過去の遺物です。セキュリティーについてもそうですが、過去の常識、良識に囚われることは果てしなく地殻変動を続けている現在のネットの大海では通用しないと言うことを、古参ネットワーカーも、新参ネットワーカーも常に意識しなければならないんですよね。

ここ最近、mixiが批判に晒されていますが、本名で登録することそのものではなく、本名で登録しておいてその上で不特定多数にばれたらまずいことをしてしまう方が問題なのです。もちろん、本名がわかってしまいまたコミュニティーから個人の特定がしやすくなると言うのはデメリットとしてあります。変なストーカーみたいな人に当たらんとも限らんわけで。利便性にはリスクがあるということを皆が認識していればよいのですけどね。

プログラマの価値を下げる超高速な陰謀

初心者がJavaを“超高速”で学ぶためのコツ

  • 学生時代(文系):C言語⇒いまいちわからねぇ
  • 新人研修:Java⇒Cより簡単だな(勘違い)
  • 現場:C言語⇒をを、Javaやってたおかげで「ポインタの意味がわかる」
  • 現場:Java⇒Cちゃんとわかったおかげで違いが明確だよ。Javaにポインタ無いって言った奴、怒らないから出てきなさい

な、遍歴をたどっている身としては、Javaがとてもじゃないけど高速で身に付くものだとは思いませんし、逆に他の言語(まあCOBOLは置いといて)をある程度理解して使っていた人ならJavaで何をすべきかがある程度はっきりするんじゃないかと思ったりもします。あ、前からスパゲッティーなコードを書いていた人はそもそも素質がないんで。id:Lucrezia様が例によって怒涛のツッコミをされているようです。しかし勢いに任せすぎてなんかちょっと誤解があるようなのでツッコミ
クラスがメモリにロードされる話、あの絵は抽象概念を示すものとしては正確じゃないけどstaticな領域とかクラスとして取られる領域を表現しているという意味では必ずしも間違いではないですね。毎回ファイルから設計図を読み出すわけでもないし。クラスが生成されるという表現は変ですが。あと、クラスメソッドとは言うなあ。まあ、その後のツッコミには大体同意です。
で、まあ最後まで元記事を読んだ感想としては、これ、単にJavaの紹介をしているだけじゃないかと。最初の2ページくらいはちょっと実装っぽかったけど、後はこういう機能があるからちゃんと使いましょうって言うことに過ぎません。UMLデザインパターンだっていうところに到っては何を言いたいか意味不明。UMLJavaマッピングってそのJavaがろくにわかってなくてオブジェクト指向もわかってない人が、UMLマッピングできるようなまともなJavaのプログラムが出来ると思いますか?
デザインパターンを学ぶことが超高速ポイントって何。デザインパターンを学習することそのものがまず超高速に出来ないわけですが、それで設計を学んだつもりになったら判で押したように適用するエンジニアが出来てしまうだけです。基本パターンを元に柔軟に考えるエンジニアが出来るとは思えません。
とまあ、そんな感じでこの記事はJavaが出来るエンジニアではなく、Javaの現場に派遣されて言ったときに「これこれってわかる?」と言われて通り一遍の返事をできるだけの単なるコーダーを超高速に量産するコツを紹介するものだったのです。今の現場にもJavaでプログラミング(設計含む)が出来るんじゃなくて、Javaで詳細な仕様どおりにコーディングできるだけの人間が山盛りいます。超高速にやろうとしたって出来てくるのはそんな人ばかり。わざわざ記事にする意味があったのでしょうかね。

日の丸抱えてどこ行くの

こういうときの「日の丸」ってあんまり文句つけられないんだよね。不思議。
それはさておき。「Google八分、知ってますか?」眞鍋かをりが“国策検索”アピール。この発想の素晴らしさ。

同ビデオではまず、Googleの検索結果から特定のWebサイトが表示されなくなる「Google八分」を紹介。中国政府が検閲対象とした情報や、国内の告発サイトがそれぞれGoogle八分にあったと語り、「検索結果が海外の特定企業に決められることがどれだけ怖いか分かるだろうか」と訴える。

さて、どれだけ怖いのだろうか。Google八分と言ったってGoogleの検索結果に出てこないだけのことです。中国政府が行っている海外サイトの検閲なんて、回線の海外GWのところでフィルターしてしまう、つまり本当に検閲。比べ物になりません。しかも所詮一企業。これがはてブ八分になってYahoo!八分Goo八分になろうとも、プロバイダー八分にならない限り、見る手段は残されています。たどり着くパスが少なくなる、すなわち発信しても受信してもらえる可能性が少なくなるだけであって。だから、Google八分なんて企業にとって見たら正しい行為で、昔のYahoo!ディレクトリに掲載するのに審査を行っていたのと本質的には変わりありません*1。 Webの本質はリンクであることは再三述べています。梅田氏言うところの「51対49で善意が勝つ」世界であるのであれば、真実にたどり着くリンクが必ずあるはずです。敷居は高くとも。
で、なぜ日の丸検索エンジンかと言う説明には全くなっていない。寄り合い所帯でパラダイムシフトが起きるような素晴らしい発明が出来るとも思えませんが、万が一上手くいったとして、政府や大企業に都合の悪い情報が日の丸八分にならない可能性がどこにあるというのでしょうか。むしろ代替が効かない分たちが悪い。結局のところ成果として技術博覧会で終わる試みに過ぎないと思っています。それに実際に運用するとしたら膨大な維持費をどうやって賄うか。企業化するしかないよな。

*1:もちろん、サイトとしての成り立ちが違う分一概には言い切れない部分はありますが

mixiの何が機能していないのか

凄惨な情報流出(というかなんというか)事件があってからというもの、mixiが如何にやばいかが声高に語られるようになりましたが、greeで同じような話が話題にならないのはやはり最大手になったからであるのでしょう。例えば、2ちゃんねる。圧倒的なトラフィックを誇る匿名掲示板の雄であることは言うまでもありませんが、いちばん最初でも唯一の存在でもありません。megabbs(久々に行ってみたら2.0になってた。笑)やちょっと色の違うところではしたらばとか、まあ、あることはあるんですが、某匿名掲示板と言われたらもう2ちゃんねるのこと。それと同じくらいのSNS界のポジションがmixiSNSと言えばmixi。一般大衆的には間違いない。それだけ一般化してしまうと、クローズドな正確がパブリックに近くなってくる。もうバブル崩壊後のゴルフ場。メンバーの同伴無しで紹介でOK。あったことない知り合いの知り合いの知り合いでもOK。人間関係を3〜4つたどれば大抵の人間に行き着くという話もあるわけで、すなわち全国民が会員になるポテンシャルを有していることは間違いありません。これで第一のハードルはクリア。紹介を公募なんてした人が出ることもあるから、招待者と非招待者がリアル知り合いである率は相対的に下がっていきます。
となると、やはり身元がはっきりしなくなっていく。何しろメールアドレス単位のアカウントで住所確認をするわけでもないから、当然ジサクジエンサブ垢とか取りまくりな人も出てくるわけです。このため、性善説ベースで成り立っていたコミュニティーが匿名の渦に巻き込まれていくという事象が発生するわけです。もはや、見るのに認証が居る(でもそのアカウントは無料で取れる)匿名掲示板になってしまっているわけです。
そこで何がやばいかと言うと、人間関係ベースのコミュニティーと信じて本名や所在地を無防備に晒している人がそれを認識していないと言う事実。もちろん、mixiとしての本来の機能を果たすためには本名で登録するべきなんです。ただ、そこに悪意が存在する可能性があるのを放置している現状、すでにその発想は崩壊の危機に瀕していると言ってもよいでしょう。確実な本人認証をされたものだけが会員となることが可能なのであればまだ機能の余地があります。本名を公開するかどうかは別の話です。それはどういう立場で何を求めてmixiで暮らしているかで変わってくるものであるから。
mixi(に限らずSNS)のよいところの一つとしては、自分の属しているコミュニティーで趣味の主張をできたりリアルのつながりを再発見したり出来るところがあります。そのためにはできるだけ本名なり身元のヒントがある状態で活動したい。しかし、実質匿名のユーザーが増えた現状、常にfusianasan2ちゃんねるであるのと大して変わりがありません。荒らしも入るし宣伝も入るし。S/N比がどんどん悪くなる。
miximixiであり続けるためには、コストをかけてでもユーザーの身元確認をすべきです。それでユーザーを失ったとしても根拠薄弱なBANをするより上場企業のとるべき態度としてはマシでしょう。それで存続できないようなサイトであればそれまで。

最近の気になる物品

こういうのをブクマコメントにすべきなんだろうけどつらつらと書きたいので。
米Samsungの30型ワイド液晶。米って頭につくと立派なアメリカのメーカーに見える。それはさておき、ついに30型がアップルやらデルやらから出てくるようになりました。2,560×1,600ドット。しかし、僕の今使っているCRTは19インチ(CPD-G400)で無理を承知で2048×1536。フォーカスは甘いですが広さを重視しています。目は疲れる。横はともかく、縦のドット数はようやく追いついてきたようですが、僕が欲しいのは絶対的な大きさではなくドット数的な広さ。22インチでこのくらいのドット数にならんものか。5年前でこれがいけるんだから、もう少し何とかならないものか。
ドコモ、903iシリーズなど秋冬モデル14機種。デザイン的にはどう見ても後退しているようにしか思えない。というよりデザイン放棄か。Fは頑張っているけど結果としてはいまいちだよなあ。他は全然変わってないし。まあノーマルiシリーズはいつもそうかな。ワンセグは某HKの受信料を払わされそうで怖い。アプリ容量拡大もいいけど、ここまで来ると最後はデザインだと思われます。AQUOS携帯はちょっと驚きですが。
輪島塗。いくらなんでも高すぎ。というか、インテリアとしていまいち感がぬぐいきれない。かといって職場で使うようなものではなく。これはあれだ、100g500円の肉と100g5000円の肉で10倍美味しいわけじゃないのと同じ。コストパフォーマンスという言葉が意味を成さないIT成金とかデイトレ成金の人、買いなされ。

無断リンクに今すぐ法的措置を!

URLが著作物とは言えないだろうし、インラインフレームで錯誤を誘っているわけではないし、誹謗中傷はリンクと関係ないし、契約に同意しないと見えない仕掛けになってないし、ID/PASSWORDを晒されたわけでもないし、むしろ自分が無断リンクしてるし!
何で訴えたら勝てるだろうか?
http://www2.rocketbbs.com/623/bbs.cgi?id=yokosroo&mode=pickup&no=7
お気に入りまで禁止とは恐れ入りました。

無断リンクについて大事なことを総括

無断リンク禁止を声高に主張すると無断リンク禁止派の人が大挙して押しかけてくるというのは歴史は繰り返すと言うか、かつてもよくあった話で、特に珍しいことではありませんが、そろそろ話題も収束してきたと思うので軽く総括してみます。

無断リンクの定義(私家版)

特定のURIに対して、その内容を記述したものあるいは掲載したものに無断でリンク行為(主にアンカータグによるハイパーリンクを指す)を行うこと。

個人的見解

リンクに無断もへったくれもあるか。http://d.hatena.ne.jp/NOV1975/20061009/p1で述べているように、「インターネットに文書を公開しておいて、リンクするなと言う主張をすることは、出版して本屋に置いたけど著者の許可無くして購入しないでくださいというくらい無茶な話」。

本来あるべき姿

無断でさわられたくない文書は、http(あるいはhttps)ではない他のプロトコルで公開されるべき。httpというプロトコルは、成り立ちから言ってもリンクされることを最大限許容するプロトコルである。認証して個人を判別するサイトも例外ではなく、いつ公開・流出してもおかしくないと言う認識の下、自己防衛しつつ使用するべきものである*1

それでも無断リンクされたくない場合

最低限、Webの仕組みを理解したうえで、自ら閲覧制限をかけるべし。どこかの紹介記事とかどこかから拾ってきたCGIに欠陥があっても文句を言う筋合いはない。

検索エンジン

METAタグでクローラー除けをしたとしても良識のない検索エンジンには結局拾われてしまうことを認識すること。

結論

無断リンクを禁止すると言う(私的な)規約は全く有効ではない。閲覧制限をかけた場合、それを回避して閲覧できる状態にすることは不正アクセス禁止法に違反する可能性がある。しかしその方法がサイト構築者の過失(不正アクセスの要件に因らない方法でアクセス可能)であれば問題はない。リンクそのものはリンクを記載しているWebページに属するものであるから、他の何物にも拘束されない。つまり、無断リンクという言葉そのものが本来はありえない。

余談

とはいえ、かつては「リンクしてもいいですか」や「相互リンクしましょう」が文化だったこともあるという文化も一部では盛んであった。これはしかし同好の士を見つけて敬意をはらうようなところから発する礼的なものであり、仲良くなる意図があって行っていたものである。当時から相互じゃないし掲載元の許可を取らないリンク集は存在したし、それについて文句を言っている者が居なくはなかった。ネチケット的な考え方はWebという世界の捉え方によって千差万別(は言い過ぎか)であり、誰が正しいとは言い切れないものではある。だが、少なくとも現時点では無断リンクを違法とする根拠は何もない。嫌だと思うのは勝手だけれども拒否するすべがない以上、制御できないやり方では公開しないと言うのが唯一逃れる手段である。

蛇足と修正(13:40)

このまとめ自体は個別の事例を取り上げるのに相応しくないので序文から事例を削除。はてブの話は蛇足としてここに移動。そもそも取り上げたきっかけははてブではなく高木氏の電凸のお話なので…。はてブコメント炎上を起こす話は無断リンクとは関係ないですね。ソーシャルブックマークのような仕掛けによって本来「たまたまorちょっと関係していて」見るだけだったサイトが誰かのアンテナに引っかかるとたちまち不特定多数に見られると言う現実。ソーシャルブックマークは炎上容易性に貢献している。一人一人は軽くコメントするのみにとどまっていても取り囲んで叩いているような構図になるのという現象を見る限り、はてブコメントは匿名掲示板によるネットウォッチに近いものがあります(匿名度は多少低いとしても)。いや、わざわざネットウォッチを目当てに掲示板に行く人でなくても目に入る場所で堂々と行われると言う点ではより性質が悪いという気もします。

*1:一般的に啓蒙不十分な問題

三国志11 / 北方謙三

三国志〈11の巻〉鬼宿の星
陸遜が辛そうです。そらそうだ、かたや死んでも敵をとる覚悟の劉備。かたやなんかやる気の足りない孫権。2人の英雄の狭間で自分の作戦を貫き通す。歴史小説読んでると軍師な人たちは結構自信満々で指示だししちゃったりしていますが、現実の仕事と考えるとそりゃあ胃に穴が開きそうなストレスで決して長生きはできそうにありませんよね。そんな勢いの蜀呉攻防戦。ぎりぎりの戦いで敗れた劉備白帝城で最後を迎え、一方歴史の表舞台から去った馬超は小さく生きようとしていきます。結末のわかっている物語なのに毎巻新たな発見がある北方三国志。ついにあと二巻。

三国志10 / 北方謙三

三国志〈10の巻〉帝座の星
中心人物がだいぶ少なくなってきて、物語が加速していきます。生き様から死に様にシフトしてきたと言うか。前巻の最後でついに関羽が死を迎えます。そうすると普通、劉備張飛とが周囲の制止を聞かず弔い合戦に突入していくわけですが、ここでは怒りと悲しみを押さえつけて、感情だけではなく、現実的にも戦略として成立させた上で呉に攻め込もうとする姿が描かれています。完全には入り込めない趙雲がちょっと可哀想。一方で曹操は孤独感を抱いたまま死んで行きます。呉では暗い陰謀が画策されます。ラストに向けてだんだんトーンが暗くなってきました。
張飛の死に方には賛否両論あろうかと思いますが、ただ酔っ払って部下に寝首を掻かれるよりはよっぽどよいですね。ここまでの性格設定に対してあまり矛盾が無いというか、最初からこういう死に方を与えるための性格設定だったようにも思われます。

あらためて御案内

昨日のエントリには開設以来の多数の御来場をいただきありがとうございました。ついでに他のページをご覧になった方には駄文の嵐で失望させてしまいましたことを深くお詫びします。この日記ですが、基本的には読書・音楽視聴感想文(とても批評とはいえません)を中心とするものでして、以下で構成されております。

  • CDやDVDの感想文(マイナーで恐縮ですがBigBand編成のJazz中心です)
  • 読書感想・紹介(SF/ミステリ/IT関連書中心)
  • 食い物の話題
  • IT関連の気になること
  • 駄文

そんなわけで、あまり期待なさらず見守っていただけると幸いです。

無断リンクをめぐる派閥的まとめ

当事者には興味ないのですが、いろんな考えがあるものだなあと感心したので今日は視点を変えて少し整理したいと思います。間違ってたり足りなかったりすると思いますのでお気づきの点など御指摘いただけると幸い。主張している人のマッピングは色々と危ないのでしません。

無断リンク禁止をめぐる派閥

  • 無断リンク禁止はできないよ派
    • 技術的・法的にリンクを拒否することは不可能派(無断リンクなんて言葉は無いよ派)
      • リンクをするのが当たり前。拒否するなんてナンセンス派
      • リンクされたくなかったらアクセス制御などでなんとかしろ派
    • リンクを拒否することはできないけど対話は可能だよね派
      • 無断リンク禁止は徹底できないけど、「お願い」すれば減ると思うよ派
  • 無断リンク禁止はできるよ派
    • 法的に問題があるよ派
      • 誹謗中傷になるリンクは名誉毀損だよ派
      • 個々のサイトの規約は有効だよ派
    • 人情的に問題があるよ派(あるいはある種のネットマナー派)
      • 嫌がることはするな派
      • いじめはイクナイ派
      • 郷に入れば郷に従え派
      • リンクは相互リンクをするものです派
    • 製作者の意図を汲もうよ派
      • TOPページから全部見てくれるような嗜好のあった人を求めているんだよ派
      • 考えがあわない人には見てもらいたくないんだよ派
  • いいネタ発見した派
    • こんなネタに俺様がクマー派
    • これをネタに俺もブクマ稼ぐぜ派
    • よーしパパはてブの人釣っちゃうぞ派
  • 見てるだけ派
    • 炎上おもすれー派
    • どうでもいい派
    • 当たり障りの無いコメントで一応触れとこう派

全然足りないような。あまり綺麗に分かれていないし。上手く対立構図(どことどこの主張が相容れないかとか)をまとめたかったのですが。今日はもう遅いので明日またゆっくり考えよう。

今日の雑感

過激派同士には対立構造があるからなかなかコミニュケーションが取れないのです。ちなみに僕は「リンクをするのが当たり前。拒否するなんてナンセンス派」ですが、「できるだけしないで下さい」って言われたらあえてすることもないかな。禁止って言われたら「それは成立しないから従えない」と言ってしまいますが。前回までの主張はあくまで原則です。大上段で「無断リンク禁止!!!」と言われたらこう構えるしかない下段の受け。

今週のオーマエニュース

すっかり大前研一ウォッチャーと化してきた感がありますが、今週も行きます。今週は「ビジネス新大陸のWeb2・0時代における経営者とエクセレントカンパニーの条件は何か?」。

一例を挙げると、いまシステム開発についてもっとも安くてすぐれたものを持ってこようとしたら日本企業でなくインド企業に〜(中略)〜こういうことに熟達した人を見つけてその人にやらせるしかないのである〜(中略)〜そうした人脈と企業の世界地図が全部頭の中に入っていることがWeb2・0時代の経営者には求められるのだ。

理解していない言葉を無理して使うとこうなります。Web2.0時代と直接関係ないじゃないかと。蓄積された情報の囲い込み的発想はむしろWeb2.0に逆行しています。しかし、記事中縦組みだから分からないでもないですが、2・0と中黒になっているのもVersionっぽくなくていい味を出しています。曰く

ところが、日本企業はいまだにその都度、富士通IBMNEC日立製作所などにテーラーメードで作らせているから、システム開発費が膨大にかかる。しかも、出来上がったシステムはWeb1・0時代のシステムなのでWeb2・0時代にはスムーズに対応できない。日本の銀行や東証のシステムのように世界から10年は遅れてしまう。

東証はともかく銀行が10年も遅れてたらとっくに無くなっていますが。Web2.0時代という言葉の位置づけが全くなされていないから、単に新しいお題目を唱えて満足しているだけにしか聞こえないんですね。SOAとかそういうあたりのことを言いたいんじゃないかと言うことはなんとなく分かりますが、ひっくるめてWeb2.0というのは如何に何でも乱暴な気がします。Web2.0時代がビジネスプロセスの変革されていく時代と定義するのであれば、あながち間違いではないのですが…。スムーズに対応できないのは大企業病としては仕方が無い面もありますが、少しずつ、そういう面も見出しているのが現場の空気です。

旧大陸時代から生き残っている大手企業はまだサイバーが分かっていないし、

サイバーって懐かしい言葉ですね。まあ、先々週ほどものすごい事実誤認があるわけではありません。いい感じで次号に続くようなので来週も楽しみです。

粘着して遊んでいるようにしか見えない。

これ。主張自体は見るべきものは何も無いものですが、大抵のブログなんてそんなものなわけで、いくら「無断リンク禁止!」に腹が立っているからと言って、このエントリにあえてコメントし炎上させる必要はあるのか。自分を棚に上げて返答している点については突っ込みがいがあるのはわかりますが、無断リンクされた不利益の実例として深く刻み込まれたのではないでしょうか。

コミュニケーション不全3

村の掟

  • よそ者が進入したら捕まえて神に捧げなければならないんじゃよ。あんたに恨みは無いが300年続く村の掟なんじゃよ。逆らったら御先祖様に祟られるんじゃ…(むー、むー、あーふーへーへーふーえー)

対話の余地が無い。如何に倫理的に間違っているかを説いても「掟だから」で終了。もちろん、現代社会の中では殺人の実態が晒されたら酷いことになりますが。

スタンス

思想の背景を色々確認しながらじゃないと議論にならないと言うか、メタ議論になってしまうというか、とにかくそういう性質のものを突き詰めて考えるのは苦手です。論というよりは自分の見える世界からのまとめ中心に書いているのはそれが理由です。〜派はよく2chのネタにもなりますが、メタなところをひっくるめて俯瞰するには悪くないかなあと思っていますが、それだけで表現できないというのもごもっともな話で。
例の件にしても無断リンクにフォーカスを当てるか、議論が出来ないことにフォーカスを当てるか、周りが扱う態度にフォーカスを当てるかで出てくる論の内容と立ち位置が全部変わってきてしまうこともあるので、こんなまとめをしても意味が無いかもしれません。が、世の中色々な考え方をする人が居るものだなあと思えることができたらいいなあと。というわけで、忙しくなくなったらゆっくりまとめてみます。何度も言うようですが、一連のエントリを書いた初めの動機は例の件ではないので、いじめの構図に似てる似てないとか、はてブの是非などについてはあまり考えていません。ただ、その一連の議論の中で出てきた様々な考え方は人の価値観、Web感、心理などの多様さを垣間見せてくれたので、あえて技術論とは関係ないあたりについても言及してみたいとは思っています。

コミュニケーション不全2

自分の考えを思いつくまま垂れ流す。まとめない。
例:

  • 私の理解ではここはこうなっているからこういう理由でこうですよね、だとしたらこれはこうなると思うんですけどどうでしょう? (…そもそも最初の理解の前提がわかんねーよ)
  • あーこれかこうなっているからこうなんだよね、ね、そうだよね、じゃあこれはこうだよね、ね、え、違うの?違わない、そうだよね、やっぱりそうだよね。だからこれがこうなって(以降無限ループ)

今日会った人は頭の回転が速すぎるのか、考えていることの一部言葉に出来る部分を垂れ流している感じでした。それでも話の背景をなんとなく知っている僕はなんとなくいわんとしていることが分かったのですが、他の人たちはポカーンとしてました。ちょっとまとめてあげたら静かになった。相手に自分の思考の流れを前提知識込みで無理やり流し込んでも受け取る側が許容できることは少ない。この場合は発信時のみの不全であるから、受信側が後で時間をかけて噛み砕けば通じることはありますが、会議の席などでは辛い。

コミュニケーション不全1

自分の主張の観点と違う観点の主張とは話し合うことが出来ない
例:

  • その追加機能は絶対必要なんだよ!最初は想定してなかったけど。コスト?追加工数?そういうこと言ってるんじゃないってなんでわからないの?
  • 無断リンクは禁止ったら禁止です。私が嫌だから。Webってそういうもの?できちゃうものはしょうがない?違法じゃない?でも私が嫌なんだってば!

まあ、色々ありそうです。上手く相手の観点に翻訳して話すか、こちらの観点に興味を持たせるしかないけど、大抵は平行線。こっちが仕方なく納得したふりをして終わることが多い。
続くかも。

言葉は選ばなければならない

断片部さんのはてブでの晒しとかのブクマコメント(整理のため何々派と付けさせてもらっています)に「無断リンクと言われるなんて心外だ派」とつけたら

私がしているのは無断リンクであり、心外でもなんでもありません。
あのエントリで言いたかったのは、言い方をあわせるなら「無断リンクしただけでいじめと決め付けられるなんて心外だ」ということでした。

というエントリでのトラックバックを頂いた。全くその通りで、簡潔にコメントしようとして間違ったことを書いてしまっていました。すみません。
どうも自分の中では無断リンクという言葉を許容できない部分があるらしく、思わず「ブクマするだけで「いじめ」とか「さらし」とか「倫理がない」とか言われるのは非常に心外だ」ということに対して「無断リンクなんてして当たり前なんだからそれをとやかく言われるのは心外だ」と翻訳してしまってたようです。こういうすりあわせがちゃんとできないと何を言ってもいい加減になってしまうわけで、自戒の念をこめてエントリとして立てさせていただきます。

糾弾すべきはこっちだ

高木浩光@自宅の日記 IPAセキュリティセンターさえディープリンク禁止などとしているわけだが。僕もなんとなく界隈の尻馬に乗って個人に対するネタに追随していた感が今思えばありますが(それでも一般論に終始したつもりですが言及はしていた)、本来はこっちがターゲットであるべきですね。無断リンクという言葉はありえない派としては。

個人が無断リンクディープリンクを禁止しているときはそれは趣味の問題であり、「文化の衝突」などと評されることがあるが、組織でサイト作りをやっている場合には、個々のページ製作担当者が直接リンクされることを期待してデザインしても、「利用条件」なるページを作成する担当者が皆の本意ではないことを書いてしまう。

まともな企業であれば、コンプライアンス対応と言う部署なりがあって、表示される文言の一字一句についてチェックが入ります。それでも利用規約コピペとか意味の分からない利用条件をうたうページが大半なわけで、少なからず社会に影響力をもつ企業のとしてはどうなの?と思われる点が多々あることも事実です。ましてや、IPAのページと言う、まさに法的、道義的な部分で正しく啓蒙していくべき機関においてこのようなことが起こってはならない。

IPAセキュリティセンターが提供する個々の情報のページに直接リンクできなかったら、どれだけ皆が不便な思いをするかは、いまさら説明する必要は全くないだろう。直接リンクが禁止されたのでは、利用者に的確に情報を伝えることが阻害される。
(中略)
そもそも、個別ページに直接リンクされ、そこだけ読まれて何が問題だというのか? IPAの個別ページは適切にデザインされており、たとえば、「ソフトウエア等の脆弱性関連情報に関する届出状況 [2006年第3四半期(7月〜9月)]」のページに突然ジャンプしても、画面上部でそこがIPAであることは表示されているし、トップへジャンプするリンクも用意されているし、パンくずリストも用意されているし、各コンテンツへのメニューも用意されている。明らかにディープリンクされることを期待したサイト設計をしているくせに、表の顔では「配下のページに直接リンクしないで下さい」と言う。

ある程度情報を消すことを想定していて、そうしているのかもしれないが、この手のページが結果として意図しているのは速報性であり、ある一定の期間直接のリンクが増えることによって参照される可能性が上がるのであれば、風化した後リンク切れしてもTOPに誘導できればそれでよろしい。また、その問題について訂正がある場合もTOPからの大量の情報ではなく、元のページから追記として参照されるのであればその方がより到達可能性が高まるわけであります。
もちろん、TOPにリンクを張ることを誘導すること自体は特に問題はない。単発の情報ではなく、伝えたいことが沢山あることは事実。ただし、「直接リンクしないで下さい」という文言により全てが台無しなのです。

キヤノンよお前もか

請負法制「無理ありすぎる」 御手洗氏、経財会議で発言と。あんまりです。僕も過酷なITの現場(笑)で働いている関係で、偽装請負の実態と言うのはよく分かっているし、請負契約で仕事を回すことでの双方のメリットも承知している。製造の現場では人件費は原価に直結するものであるから、常に増加に向かうならともかく、生産量現象のリスクのあるこの経済の状況下では、全て正社員で賄うことによるコスト増大が経営を危うくする(もちろん、簡単に首を切れる状況ならそうでもないけど、それは本末転倒)ことを考えると、経営判断としては正しい。
しかし、請負契約ってのは技術のあるところが文字通り、業務を請け負うものである。インプットとしては「何をしてください」があり、アウトプットとして物がでてくるわけだ。インプットに「仕事を教える」というものが含まれるのか。そうではあるまい。つまり、請負契約だけど実質派遣ですよ、でもそれを認めてくれなきゃやってられませんよ、というわけである。御手洗会長の会社であるキヤノンの昨年末時点でのキヤノン株式会社における売上高・経常利益・純利益を見ると利益がものすごい伸びを見せている。売上高が2倍にも満たないのに純利益は4倍以上。コスト削減に努めてきた、商品の付加価値率が上がったというのもあるかも知れないが、この利益の伸びのうちのいくらかは確実に人件費の削減、子会社への過剰なコスト削減要求のおかげであろう。
会社が果たすべき社会的責任は、利益を伸ばすことなのか。伸びた利益はどこにいくのか。更に利益を伸ばすために使われるのだろうか。本来、会社とはより多く人を雇い、経済を回していく原動力になるべきものであり、企業が大きくなればなるほどその責任は大きい。社員数10人売り上げ10兆円なんていう会社ばかりなら世の中立ち行かない。請負・派遣と言った雇用形態(請負は雇用形態じゃないけど実態として)は自ら生み出した富を還元しなくてもよい、企業にとっては楽なものである。資金繰りにアップアップになっている会社が行っているのであれば、経営策として間違っては居ない。しかし世界に冠たる大企業として利益を抱え込みながら、正社員登用は会社にとって苦しいとは何事か。世界に物を売っているからといって日本の家計を蔑ろにするツケはいつか必ず回ってくるはず。日本的経営はもともとはWin-Winな経営だったはずだが、どこでおかしくなってしまったのだろうか*1

*1:それを考えるとバブル経済を作り出した銀行などの責任は重い

物心

綾川亭日乗 もしや、この人は「物心」のついてない人ではについて、あとのエントリで「物心」という言葉について少し触れられている。元のエントリで「物心」とあえて括ってあるのはカマヤンの虚業日記 「物心」のついていない人たちを基にしているからですが、どちらも「物心」を人によっては結構な年になるまでつかないものとしている。僕が物心というときは、おぼろげながら記憶の残るようになった時期というか、自分という存在を客観視できるという意味で使っているから、大抵の場合2〜3歳のころを指すと思っている。ただ、このあたりを読むと新明解さんあたりの辞書的な意味でも解釈が幅広く取られるようです。
個人的には、G.Eganのディアスポラでソフトウェアとして生まれた孤児「ヤチマ」が自分と他人の境界をついに発見する、その瞬間が「物心がつく」ことをよく表現しているように思える。

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国民総無責任時代

新小児科医のつぶやき その日が来たか・・・。ついに現代日本の抱える最大の問題点が最悪の形をもって世にしらしめられたわけです。これは医療の問題ではなくて、共同体としての社会の変質に他なりません。行政の問題ですらない。法治主義の最悪な部分が顕現してきるものでもありますが、国民一人一人の問題なのです。
註:以後、医療や法律に関する記載については私は専門家ではないこと、また全くの主観により書かれているため事実誤認を含む可能性があります

なぜ搬入が拒否されるか

この十字架についてはネットに参加する医師の間では既に常識化しており、「ロシアン・ルーレット」とか「ババ抜き」と表現されています。患者の為に医師の使命感に燃え、無理を承知で引き受けたものが破滅する怖ろしいシステムです。この十字架は都市伝説の類ではなく、立派に司法の場で繰り返し断罪され判例となっている事実なんです。

医者としての使命を果たそうとすると結果として破滅する。司法も守ってくれない。いや、それどころか罪だと断じる。なぜか。それは、法律を解釈するとそうならざるをえないからであり、司法自身の責任ではない。それでは医師に責任があるのか。どうやらある。受け入れた時点で生じる。しかしその責任が自分(あるいは現場)のキャパシティーを超えたものであるのであれば受け入れてはならない。それが引き受けるということだ。少なくとも判例から言うとそうだ。では、何故昔は救急医療が機能していたのか。

問われるのは最終的な結果の責任ばかり

そもそも医者と言うのは患者に対してベストを尽くして直せるように努力するのが仕事である。医者にかかった時点で患者はリスクのある存在。自分の健康・家族の健康は自分で守るのが筋であり、それでも病気にかかってしまうことは生物として仕方の無いことであり、また不幸な事故にあってしまうことは文字通り不幸なのである。医療の結果として治癒することは幸運なことであり、感謝しなければならない。ところが、その自己の責任を全く省みず、結果として直らなかった、障害が残った、死亡したことを医師の責任にのみ転嫁することがままある。医師がベストを尽くしたかどうか、素人目では判断できない。だから医師を責めることは自然な感情として仕方が無いことと思う。しかし、原因とそれに伴う結果に対して責任を取るべきは患者本人だ。医師ではない。医師は自分が出来る限りのことをしたかどうかについてのみ責任を問われるべきであり、つまり過程において責任がある。つまり、専門内での明らかな誤診や処方のミス、緊急性を伴わない状況での未熟な技術の行使、患者取り違え等「有ってはならない」レベルのミスは明確に医師の責任である。それ以外を糾弾すべきではない。
「仕方が無かった」という言葉が社会的に有効だったから、患者(あるいは遺族)は事故の責任を思い、医師の努力を思い、折り合いをつけていた。しかし、厳密な法解釈のものでは通用しない。人としてそんな野暮なことをしなかっただけである。というよりは、コミュニティーのモラルとして、医師を断罪し、廃業に追い込むことは自分の首を絞めることになる可能性が大であるから許されないことであったからだ。

訴訟社会

訴訟を行うと言うことは、当事者間で解決できないことを法に基づいて白黒はっきりさせようと言うことである。紛争と言うのは本来当事者間で解決されるべきものであり、または小さいコミュニティーの中で解決されるべきことであり、それでも解決しなければ…というように次第に法的な場に近づいてくる。それを一足飛びに行うことは、地域のルールを乱すことにもなりかねない(もちろん、それしか手段が無い場合があることは否定できない。地域ぐるみで敵に回る等)。なぜなら、個人の利益よりコミュニティーの利益のほうが大事だからである。ところが、コミュニティーに属さない人間が増えてくると個人の利益を求める割合が増大する。ここで社会と個人のアンバランスが生じ、求めるものは正義から利益にシフトしていく。

PL法みたいな

個人が製品のせいであることを立証するのは困難であるから立証責任を企業に属させましょうという法律であるが、それを盾にとって空気の読めない責任追及を行うこともまた社会の利益とは相反するものだ。(都市伝説では有るが)猫を電子レンジに入れた責任が問われないと言うのはおかしい。何もしていないのに爆発したならともかく、トリガーを引いたのが自分である以上はそれなりの責任がある。不備を突くのは甘えだ。

本末転倒の事態

例えば、子供を手遅れで無くすような事態があったらそれは不幸なことだ。しかし、その責任を無理やり医師に押し付けることで、小児科医がいなくなり、次の子供は診療する機会すら与えられないかも知れない。自身のことを考えたってそういう可能性があるというのに、地域には何件子供のある家があると思うのか。

社会と文化と個人主義

そんなわけで、自分の責任を認めなくなる傾向が日本の社会のバランスを崩している。日本の、まず「すみません」と言える文化は素晴らしいと思う。何がしかの責任を自覚した上で対話に入るのだ。相手を慮る気持ちが第一にあるのだ。その気持ちが蔑ろにされたとき、初めて行使すべき手段に出ればよい。行き過ぎた個人主義はまず社会の首を絞め、個人を緩やかな自殺に追い込む。

ドンキホーテにならないために

それでもドンキホーテはいるでしょうが、ドンキホーテはやがて各個撃破されて消えていきます。医療の焼野原への大きな曲がり角を通り過ぎた事件と私は思います。

各個撃破されないためになにができるだろうか。幸い、我々は時間と空間と立場を超越したインターネットの世界という大きな可能性の元にいる。地域というコミュニティーは消滅の危機を迎えているが、それに変わるより強固な、発信力のあるコミュニティーの可能性が目の前にある。

私としての責任を見つめなおす

とはいえ、現実の世界はより一層私人の責任を問わず、公人の責任を問う方向に進んでいるように思われる。それは私人としての我々が様々な手段で責任を公に押し付けているからだ。しかし、これが行き過ぎると仕事上の本来責任を問われるべきでないことに対しても積極的に責任を問う社会になりかねない。そして医療の現場は既にそうなっている。世のサラリーマン諸君は自分の仕事がそうならないと言い切れるのであろうか。この混沌とした時代こそ私としての責任のあり方を見つめなおし、次の社会の有り方を考えていく節目なのではないだろうか。

三国志12〜13 / 北方謙三

三国志〈12の巻〉霹靂の星 三国志〈13の巻〉極北の星
もはや今まで活躍してきたほとんどの男達は死んでしまっていてテンションダウンしている三国志の終盤です。司馬家がじわじわと曹家をのっとっていく様子のねっとりぶりとかはいいですね…。粛々とした北方馬謖は切られちゃいかんと思ってしまう。ちょっと新しい。7度放つ人は陳瞬臣の出来レース説のほうが面白かったな。自分の意思を貫いて命令に逆らう李厳とか、なかなか単なる悪者が出てこないこの三国志でしたが、あえて仲達を走らせないで余韻の元終わるのがすばらしい。
使わないともったいない伏線がいっぱい張ってあった気もしますが、これにて劇終

今週のオーマエニュース

Web2.0型企業とは、ターンアラウンドタイムが早くて世界中のいちばん安いところから調達できる企業のことだそうです。なんとなくいいたい意味はわからんでもないですが、ちょっとキャッチフレーズ倒れしているような気がします。というか、ターンアラウンドタイムを早める努力はそれが必要な企業はずっとやっていたわけで、それはWeb2.0的なものというよりは単なるIT化ではないのでしょうか。調達システムを構築するという技術的なポイントで言っているのであれば、Web2.0という言葉はあまり正確に言い表していないし。しかし、何より気に入らないのはこういう企業こそが優れていて、生き残るという考え方。そりゃあ、短期間で売り上げをガンガン伸ばしていかなければならないのであれば話は分かりますが、ニッチな商品作りをしていたり、時間やバリエーションのないことで付加価値を高める企業には余り関係ないことであったりします。視野が狭くてちょっとつまらんですね。

ネットワークのコスト負担

ネットワークのコスト負担の議論,やめませんか?:ITpro 。確かにコスト負担の公平性は議論する余地は無いかもしれない。最初から社会インフラとして構築されたわけではなく、儲けようとして始めた事業だから公平性を求めるのには無理がある。しかし、

ただ,プロバイダ間の競争や力関係で決まるコスト負担が基本的には一番まし,というのが記者の意見だ。弱いものにも交渉相手が複数あるのが普通で,そうであればもっとも有利な条件を提示する相手と契約すればよい。環境の変化や過当競争で一時的に不公平な状態になっても,やがて公平な水準に近付いていくことになるはずだからだ。つまり,プロバイダは誰かに公正なコスト負担を決めてもらうのでなく,自分の判断でコスト負担を適正にするよう動くのが筋であり,早道でもあると思う。

というのは、特にエンドユーザーにサービスを提供するプロバイダにとっては結構難しい問題だと思う。プロバイダを回線事業者と捉えると、競争と淘汰により自然に適正な位置に落ち着くかもしれない。しかし、プロバイダは一方でエンドユーザーへのサービス提供を行っていて、e-mailについては完全にプロバイダに依存しているユーザーが大半であろう。
かつてベリサインが404を返す代わりに広告サイトを表示して非難を浴びたことがあるが、このようにインターネットの世界は決して公的な機関が法の元で構築しているインフラではなく、私企業が色々な大事な箇所を握っているインフラなのである。利用者としては競争によって自分のプロバイダがつぶれることによって一時的に使用できなくなることや、環境の変更を余儀なくされることを甘んじて受け入れなければならない。だから、ただでさえバーゲン状態の今の日本の現状では過当競争によって存続できないプロバイダを生み、大量のネット難民を出すことは望ましいことではない。
とはいえ、携帯電話の番号をしょっちゅう変えるくらいメールアドレスも変わって問題ないと思っている人は、安ければ安いほうがいいと思っているだろう。
自由な競争ではユーザーに転化しにくいコストなので、共倒れを避けるためにはある程度自然任せでは無い指針作り的な議論は必要なのではないだろうか。

団体サイトと個人サイトと

はにっき - 高木浩光氏は何様のつもりなのかを読んで「法律作れよ」との言に反射的に反応しそうになりましたが、ちょっと落ち着いて考えてみることにしました。コメント欄でも「仕組み弱者」という言葉が使われていますが、インターネットが技術者だけのものではない以上、そういう人たちのことをきちんと考えるべき時期に来ているのでしょう。もちろん、今まで(それこそインターネットと言う言葉が一般に広く知れ渡る前)も無断リンクについての議論と言うのは多くされてきました(ここで過去の議論などを発掘されています)。また、この想定問答集を見ると今回湧き出してきたような議論は過去も一通り行われていることがわかります。それを踏まえたうえで。

原則論

まず、再三主張しているように、団体・個人に関わらず、「無断リンクは禁止です。勝手にリンクした場合は〜〜します」という訴えは有効ではない。法律的にはもちろん、リンクは所詮アンカータグでURLを書いてあるHTMLの記述であり、記述自体はリンク先ではなくリンク元に所属するものである。よって、リンクそのものは禁止しようと思ってもできない。

ページを公開するということについて

インターネットを利用するために必要なのは少々の投資(パソコンや携帯など)と基本的な知識だけである。免許など必要はない。利用するだけならば道を歩いているようなものだが、ページを公開するのは自転車に乗るくらいのものであって、いずれにせよやり方さえ知っていればよい。歩行者や自転車でのマナーは、未然に事故を防ぐという明確な目的があり、信号を守ることや、区分を遵守すること、むやみにベルを鳴らしてトラブルの元にしないなど一通り小学校あたりで教わることと思うが、インターネットのマナーについてはこうはいかない。教えるところも出てきているだろうが、事故の概念やケースが多岐に渡り、社会的な意見の一致も見せていないことであるから、かえって嘘を教えてしまうことになりかねない。
しかし、純然たる事実があって、最低限それだけは利用する前に教えておくべきことがある。それは「ウェブページは誰でも見える場所に公開されている」という事実。一度Webという世界に出してしまったものは、少なくとも自分の思う通りに抹消できるものではない。インターネットには個人が溢れているが、決して「私」を保障した場ではない。

団体と個人

高木さんのところで綺麗にまとめていますが、団体サイトについては、その目は厳しい。団体サイトに対しての無断リンク禁止なんてナンセンスと言う話は、「もっとよくできるんだから、ちゃんと努力しようよ」ということだと述べつつ

単に「もっとよくできるんだから、ちゃんと努力しようよ」の運動だけであれば、まあ、個々の団体サイトが自己矛盾したポリシーを掲げていても、「放置しておけばいいじゃないか」ということにもなろう。だが、それだけでは済まないケースも現れ始めてきた。それが、栃木県警察の事例だ。一部には、「リンクしているということは、リンク元はリンク先の団体に認められた団体だ」という誤解が生じ始めているらしい。これは、フィッシング詐欺を防止する観点から、そのような誤解をなくしていかねばならず、リンク許諾制は、むしろそれを助長することになるのだから、やめるべきである。安全なWeb利用の観点から、アドレスバーを確認することと、リンクはリンク元にのみ責任があることの理解は、すべてのWeb利用者に最初の一歩として学習してもらうべきものである。

としている。団体、特にある程度社会的な影響力が認められると思われる団体は、その言動が無知な閲覧者の誤解・妄信を招き、またそのことに団体が責任をとれるわけでないから、特に気をつけなければならないことである。
個人サイトの場合はインターネットと言うものの本質とは別の場所で、利用者の想いが発生する。その想いは様々であり、それぞれが固有の目的やマナーを生み出すが、社会的な責任は基本的にはない。主張することは自由であり、何物にも制限されない(明らかに名誉毀損などに該当する場合以外は)。ただ、何がしかのデータを公開し、閲覧すると言う本質から外れた主張は、することはできても受け入れてもらえるとは限らないだけである。

個人サイトについてさらに

とはいえ、インターネットと言う便利な世界を使ってコミュニケーションしたいという場合、そのコミュニケーションは現実の世界と同じく、ある程度私的に閉じていたいものである。現実の人間関係もそうであるし、同好の士を求めてその共通認識のある世界でコミュニケーションしたい場合、異分子の存在を排除したいと言うのは当然の要求である。しかし、インターネットの場が「公開」を基本としている以上、完全に排除することは難しい。アクセスコントロールは必ずしも解決の手段にならない。検索で引っかかって来訪する人たちもターゲットにするのであれば、アクセス制限はその可能性を減少させるし、誘導もしにくい。完全に私的な場を作るのであれば、アクセスコントロールは有効であるが、それなりのコスト(手間や費用)がかかる。つまり、そういうものなのだと割り切って使用する分には問題は起きないけれど、内容について別のところで罵倒されたり嫌がらせを受けたりと言う行為を甘んじて許容しなければならない事態というのは受ける側からは理不尽なものと感じる。所詮個人の感じるものや考えることであり、知らない誰かから一方的に糾弾されるいわれは無い。
一つここでいっておくと、あくまでこのことは、趣味嗜好や思想の問題についてであり、犯罪行為(すれすれも含め)や不正な利益誘導など、社会的に許容されない物事についての文書はそれを「公開」している以上、糾弾されても文句は言えないと思う。また、誤解・思い込みに起因する間違った啓蒙活動は当然突っ込まれるであろう。ほおっておけばいいと思う人もいるだろうが、二次的被害者を出さないためにもあえてきちんとすべきだという考えの人もいる。疑似科学などは現実の世界に影響を及ぼしかねない(極端なことを言えば誤った認識に基づく世論の形成を利用した立法行為などが発生しうる)。
この問題を上手く解決し、また誰でも簡単に実現できるという方法は今のところ無い。アクセス制限やディープリンクの排除などはそれなりにコストをかければ実現可能であるが、高木氏はこうも言っている。

しばしば、個人サイトが「紹介禁止」(無断リンク禁止)を掲げているところへ、「見られたくないならアクセス制限かけろよ」と言うような人が出てくるが、知り合いにだけしか見せないつもりでやっているわけじゃないのだから、そのような要求は受け入れられないこととなる。彼らのしたいことは、不特定多数には見られたくないが、まだ出会ってない友人とは出会いたいという願望を達成することだ。
これを技術的工夫によってそのような場を提供できないかという話は、過去にも話題になったことがあり、何人かの人がアイデアを書いていたのを見た。今日も、「雑想日記」の「イソターネットもあっていいかも。」にその種のことが書かれている。
mixiなどの現状のSNSアーキテクチャではその要求を実現できていない。だから、「友達まで」に制限する設定をしないまま、公共の場に相応しくない発言をする輩が後を絶たないわけだ。
何か作りようがあるのではないか、やってみてはどうか、という話は、去年だったか、はてなの近藤さんに話したことがある。
もしそれがうまく実現でき、ネットでの私的空間と公的空間を気持ちよく分けることができたなら、「公共空間ではどのような批判も受け入れるべき」ということは正当な主張となるだろう。そこでは「無断紹介禁止」などあり得ない。

これは、もはや無断リンク云々という話ではなく、WWWという空間の今後という話である。あくまでウェブは「公開する」ということを基本に成り立っている公的空間である。その上では実現できない私的空間を擬似的に作っているという現状は、容易に崩壊させることができる。それは仕組みがそうなっているからであり、マナーとかモラルとか、そういったものが仕組みを救ってくれるわけではない。私的空間を作るためにはどうしたらよいかをこれから考えていかなければならないように思える。

仕組み強者など居ない

原則論は現実論でもあり、ウェブが公的空間であるという現実を理解しているだけである。上にあげた想定問答集を見るとわかるとおり、無断リンク禁止という主張は、現実を理解しておらず、「公開」しているということを意識していない可能性がある。原則論を主張する人々が「無断リンク禁止」を攻撃するのは、認識をあらためてもらう事で、公開している危険性について考えて欲しいということもあるのかもしれない。
技術者で無い人にアクセスコントロールの実装を要求するのは確かに酷なことである。しかし、アクセスコントロールを要求する人は、大抵の場合「どうしてもリンクされたくないんならそうすれば」という話であって結局のところ「無断リンク禁止」を実現しようと試みることはとても難しいことであると主張していると思われる。公的空間のまま無断リンクを排除するのは難しいし、私的空間は構築するのが難しい(し、現状は完全なものにはならない)。仕組み強者といわれる人々は、確かに技術者ではあるが、自分の観点から難しさ、あるいは無意味さを語っているに過ぎない*1

これから

インターネットが社会的なインフラとしてここまで出来上がってしまった以上、技術的な原則論だけでは議論が完結しないのは明らかである。交通ルールと同じで利用者においても最低限の教育はなされるべきである。情報流出などの問題は個人(あるいは団体)と公的空間のつながりが本人の気付いている以上に強いものであり、またウェブという空間の時間と距離を超越した現実をはっきりと認識していないという点において発生している。得体の知れない世界に何の防衛策もとらずに入り込んだという点では自業自得と言えなくも無いが、なし崩し的に社会インフラとして使われるようになってしまったインターネットは本質的に脆弱なものである。インフラ化する側の責任としては、必要以上に負荷がかかる教育という手段だけではなく、意識しなくてもある程度のラインでは問題が起きなくなるような仕組み的な解決もしていかなければならないのではないだろうか。

*1:もちろん、本気で仕組みで解決しろと言っている人もいるだろうから、仕組み強者などいないと言い切ってしまうと言い過ぎかもしれないが

責任の偏り

この記事を読んで暗澹たる思い。我々IT業界の人間も予見可能性が低いことへの挑戦を続けているわけで、他人ごとではない。いちかばちか、緊急な判断を要する職業であれば、何度と無く直面する状況。最善を尽くさなかったことではなく、最善を尽くしてもなお及ばなかった事に対して、また最善を尽くすことができないのがわかってあえて身を引いたことに対してあまりにも酷な仕打ちをする社会的な意味は一体何なのか。行政とは司法とはまた政治とは、個人が社会的責任を最大限果たせるようにするために努力する機関であり、最善を尽くしたものを糾弾するための機関ではない。人生が壮大なババ抜き(しかも引いたらほぼ退場確定)になることは誰も望んでない。たまに相手のカードが透けて見える人までいるし。
感情と理性。人間と言う理性は、過去何度も過ちを犯しながら、種が存在するための最善の手段を選択しようと努力してきたはずだ。医療・農業・天文学、その他多くのものが数々の失敗・誤解・迫害を乗り越えてここまで進化してきた。一時の感情に流され、あるいは一握りの権力者の利益のため、ゆがめられてきたことも数多くある。しかし、着実に進歩し、昔であれば救えない災害を乗り切ることを可能にさせてくれた。
その利益はしかし、100%誰もが享受できるわけではない。例えば、ある病気になったときに助かる確率上がっているだけだ。つまり、運だ。受け入れがたい気持ちはあれども、理性がそれを受け入れる。そうでないとシステムが崩壊するからだ。次にまた自分が享受するかもしれない利益の可能性を自ら排除する愚かさを考えるからだ。また、最善を尽くして及ばなかった相手を慮るからだ。行き過ぎた個人主義は自分がたまたま受けられなかった利益に対する割り切りを拒否することでコミュニティーを崩壊させ、社会までも崩壊に追い込んで行くのだろうか…

純粋な悪

いじめられた経験を持つ人は少なからずいると思う。僕もそのうちの一人だ。無論、いじめにもいろいろあり、レベルもある。相対的に見るといじめといえるのかどうか微妙なラインのものしか体験していないので多くは語れない。自分が受ける仕打ちは理不尽だとは思ったが、それ以上に相手をそういう行為に走らせた境遇に同情をしてしまっていた。そういう僕の気持ちが更に相手を傷つけていたのかもしれない。
性質が悪いのはそういう首謀者ではなく、取り巻きのただ面白がってやっている奴らで、首謀者が心の奥底で感じていたであろう相手に対する理不尽さはそこにはない。少なくともその行為は純粋な悪である。動機がない行為ほど罪深いものは無い。
深町秋生の新人日記 - いじめをいじめを読んで確かに報道の世間を誘導するような論調については問題があると思いはした。しかし、単なる懲らしめニュースと斬ってしまってよいものだろうか。純粋な悪に手を染めてしまった少年たちを放置してはならない。大人の手によって純粋な悪をなすポテンシャルを与えてしまったのだ。そのことを指摘していくのもマスコミの役目であろう*1
少なからず理不尽だということを理解してそれでもいじめていたのであれば、きっと結果を重く受け止めているであろう。その場合、彼らは十字架を背負って生きていく。しかし、悪を実行することのみを覚えてしまったのであれば、そこから引き戻すのは大人の義務である。大人の都合によって事実を隠蔽することがあってはならない。だから僕は真実が知りたい。例え彼らが傷つくことになっても、それはきっとこれから人として生きていくために必要なことであろう。

どうも挑発気味になってしまうが、いじめに簡単に憤る人を見ると、いつもこう言って茶化したくなる。「でもまあ、いつもあんたみたいなやつが一番先頭に立っていじめてくれたんだけどな」などと。

そういうレッテル貼りをすべきなのかどうか。憤ることと、結果的に別のいじめに加担することになるのは分けて考えたい。憤り、事実を知り、どうすればいいかを考える。必要なことであると思う。

*1:新聞などの思想が曲がっているとか取材がおざなりであるとか、そういった批判は当然あるにせよ、本来的に

巨大なブラックボックス

http://www.sun.com/emrkt/blackbox/index.jsp
いやはや。参りました。月まで行っちゃってるし。電源の確保さえできればある意味最強っぽい。
誰もが小さいラックを作ろうとしているときに、コンテナサイズだったら持ち運びに便利だよねってソリューションにしてしまうのは時代に逆行しているようでかえって効率的な印象は受けますね。
しかし、データセンターごとあっさり強奪されるという洒落にならない事態が思い浮かぶのはなぜだろう(笑
元ネタ

ついに踏み出した絶望への一歩

新小児科医のつぶやき なるほどのコメント欄から引用。

勤務医 『
ついに始まりましたよ。
一人で救急指定病院で当直(バイトという立場で)の応援は嫌だとうちの医局の医師たちが拒絶し始めました。だったら医局を辞めるそうです。続出しているようです。入局説明会で実はこういった病院での当直はあるかと研修医の先生方が質問が続出し、紛糾しました。来月からそちらの病院(複数ですが)にお断りせざるをえません。
少なくとも個人病院で救急指定の看板をおろすという話は今月になり増えてきました。それがいいですと新聞を読まない連中以外もう誰も止めません。(以下略)

そりゃそうだ。医師というのは確かに人の命を預かる重要な職業で、大量の知識とそれを引き出す思考能力、手術を完遂する技術力と体力など様々な技能が要求されます。医療行為とはおよそ人の行為の中でももっとも難易度の高いものの一つであることは間違いありません。もちろん、全員が死力を尽くして戦い続けているかというと、そうでないでしょう。いい加減医者だっているかもしれません。しかしそこの社会人の貴方、自分がそれだけ仕事に正対していますか?少なくとも僕はそこまで仕事に人生かけてないし、土日はお休みして趣味に時間を使いたいし。「そんなに報酬貰ってないもん」、そう思うかもしれません。しかし、全知全能でなくてはならず、一度でも失敗を犯せば奈落の底、そんな仕事に報酬の多寡が関係あるでしょうか。
少なくとも、今現実に医療の現場が崩壊しつつあります。

報道

これが真実かどうかは分かりませんが、まずここを。

ああ、なんてことだ。
 第一報を書いた青木記者はカルテが読めなかったし、毎日新聞は若い記者に医学的アドバイスをだせる専門家をつけてやらなかったし、毎日新聞自体もその必要を認めなかった
ってことですね。非道すぎる。
天漢日乗 「マスコミたらい回し」とは? (その23) 医師限定掲示板からのコピペ カルテが回ってきました「その日何が起こったか」 マスコミはカルテを入手するも、カルテの内容が解読できず誤報を繰り返す〜

報道機関とは、少なくとも報道については

  • 事実を
  • 門外漢でも理解できるよう
  • 正確に
  • 主観を交えることなく

伝えることが責務であり、事実誤認だけはしてはなりません。そして、事件についての意見を述べるのはそのあとでよいはずです。もちろん、この書き込みが真実かどうかはカルテを直接見てないから判断できない(しかし、公開されているから、判断できる人はいるはず)ですが、ここまでの問題になっている以上、報道機関としては白黒はっきりつけて欲しいものです。ネットの意見なんて知らないよって言われるかもしれませんけどね。

不買運動

再び天漢日乗さんより「マスコミたらい回し」とは? (その24) 誤報を垂れ流すマスコミへ対抗「スポンサー製薬企業製品の不買運動」続報
こういう実力行使自体は気持ちのよいものではありませんが、それほどまでに耐えられなくなっているということでしょう。付き合いも深く、いろいろしてもらっているであろうMRを蹴っ飛ばしてでも不買をしなければならないわけですから。

炎上

さて、これは本当にお医者様のブログでしょうか。私は医者ではないので偽者認定はできませんが、少なくともあの共同通信の記事で全てを判断して「呆れてものが言えません。」と言ってしまう医者にはかかりたくないですね。

よい医者というのは患者さんの話しを聞く医者です。そして謙虚な人です。

そう、あなたのコメント欄のやりとりを見る限り、あなたはよい医者ではないようですね。

捜査

県警、病院関係者から一斉聴取 因果関係捜査 妊婦死亡
そりゃ救急指定の看板外したくなるわ。

何を信じればいいのかな

ウェブに生息していると、マスコミはクソでウェブには正しい情報が溢れていると思い込みがちですが、某巨大掲示板の管理人曰く「嘘を嘘と見抜ける人でないと(ry」ということで、その情報が正しいかどうかを判断するのは結構難しい。論理的な思考能力がある人は、ある種の欺瞞を見抜くことは可能であるけれども、確実に本当だといえることは何も無い。これはもちろんマスコミにも言えることで、たとえ正しいことを伝えようとしていても、専門知識の欠落により、誤って伝えてしまうことだってあるわけです。餅は餅屋というわけで、専門知識を持った人がしっかりと発信している情報を如何にとらえていくか。最後はリアルワールドで情報を集めているものが強いのですから、マスコミが本来の使命を果たして欲しいものです。というか、誤報は立件、誤報による損害は賠償というのが「記者本人を対象として」行われるくらいのことをお医者様は強いられているという事実を認識した上で、慎重に報道していただきたいものです。

感情論

制度とか仕組みとか法律とか、そういう問題を論じるときはマクロな視点が大切です。「遺族の気持ちを考えろ!」って言うのは思考停止というか、復讐をしたいんですかね。どうしたら次に起きないようにできるか。それが大事なんですよ。もちろん、その事故が起こった原因が医者個人の責任(注射打ち間違えたとかね)であれば、次の被害を起こさないように医者を牢屋にぶち込むのはありですよ。そういうこと。

バブル後遺症今だ癒えず

asahi.com:請負会社への出向「違法」 厚労省、松下電器を指導へ
いくらなんでも「正式に偽装請負しますよ〜」と宣言してやって問題になるっていうのは酷すぎますが、経営陣が企業における「社会的責任」を全く省みず、会社の利益にのみ忠実になっているという何よりの証拠であるといえるでしょう。短期的な業績を重視し、株主の利益にのみ奔走するのはしかし、銀行が安定株主になり、長期的視野で、社会貢献をしながら広く国民に利益を還元するというかつての日本の経営がなりたたないことでもあります。そして、これは勝ち組負け組みの二極化を推進する仕組みです。
短期的な視点で経営を行うと、生産量の増減によって、もっとも影響があるコストは人件費ですから、固定で多数の人員を抱える正社員化は避けたいという本音、これはよく分かります。そこに対応するために派遣という業務があります。しかし、派遣も法改正により、勤続すると正社員で雇う義務が生じます。業績が好調なときは長期で雇うことになりますから、正社員が増えてしまう。

そもそも偽装請負って何?

そこで請負契約を行うわけですが、請負先は当然生産ラインを持っているわけありませんから、実質派遣されてくるわけです。しかし、ラインを借りてやっているという形にすれば

  • 自社で
  • 請負元の指示を受けず

生産するという体裁をとることは可能です。請負は

  • 契約で決められた成果物を
  • 契約で決められた納期に

納品することが請負元とのお約束です。
ところが、実際には、請負元の社員からああしろこうしろと言われます。そりゃ請け負った先も技術的ノウハウがあるわけじゃなくて、作業員を出しているだけですから。じゃないと自分ところで大企業に負けない製品を生産できちゃいます。かくして、偽装請負が完成するわけです。今回の問題は、指示を出す人が請け負い先の社員なら問題なかろうということで出向させてしまったところで、そりゃあ資本関係も何にもない会社に出向って意図が見え見えですよね。

人々の犠牲の元で上げる利益

企業の側も短期的な業績を上げないと「もうあそこはダメだ」とかつるし上げられる以上、利益を出す仕組みを考えなければなりません。変動リスクにまず目が向くのは当然です。しかし、一方で人を雇うという責任を抱えているということを忘れて欲しくはありません。このままこの傾向が改善されなければいつか来るであろう今負け組みと呼ばれている人たちの親の世代という肥沃な大地を食い荒らし、その先に残った荒野で商売するという時代を想像して欲しいものです。もちろん、企業だけの責任ではなく、政治の問題でもあります。誰がちゃんと考えてくれているのだろう。

高校って、受験勉強しに行くところだっけ?

耐震偽装ならぬ授業偽装で高校卒業の単位が足りなくて大問題。何しろ「日本史には世界史が含まれる」だの「授業名と中身が不一致」だのやりたい放題なわけだから、酷いものだ。高校の生徒は大学で自分で授業を選んで単位を計算するのと違って、ほぼ限定された選択肢の中で、つまり学校の用意したカリキュラムの範囲で選択するのですから、そこに責任を求めてはちょっと可哀想。それより何より、「大人の社会では目的のためなら不正をしてもいいんだ。ばれなければ」という大っぴらにしてはいけない、一部の人だけがやっているはずの、悪いことを、いちばん身近で「働いている」大人がやっているのを目の当たりにした生徒たちの前途が。しかも犠牲者感むき出し。
ところで、僕は公立の進学校に通っていたけれど、あまりちゃんと勉強をしたという記憶がない。というか、一部の「現役で東大はいるぜ俺は」オーラを出していた奴ら以外は部活や運動会、文化祭、生徒会活動などに血道をあげていた。それでいて大学進学実績はそれなりによかった。もちろん、進学校であるからポテンシャルのある人間が集められている。勉強がどういうものなのか分かっている人ばかりだ。多分、みんなの学校の授業に対する評価は一つの基準しかなかった。役に立つかたたないかではない。面白いか面白くないか。そして授業は面白かったり面白くなかったりした。ほとんど大学みたいな感覚で、なんでも基本的には生徒の手で運営されていたから面白かった。先生たちとも戦った。もしかしたら手のひらの上で踊らさせていたのかもしれないけれど、自分たちの主張を展開する場は与えてもらったように思う。
別に、全然勉強しなかったわけではないけど、それが受験に役に立たなかったかといえば結果的にはたったと思うけれど、それでも受験勉強をしに僕の母校に通っていたという人は少数派ではないだろうか。みんな、自分でものを考え、興味を持つものにどのようにアプローチしていくかを学んでいた。方法論を。大学に入ったとき、周りの同級生たちの大半はそういったことを経験していなかったらしい。ぬるいサークルでぬるい活動をしている奴らを見て、「お前らは高校生かまったく」と余計な感想を抱いたことも一度や二度ではない。公立の進学校というのはそういうものだとずっと思っていたのだけれど。
こういう言い方をしては失礼かもしれないが、いわゆるブルーカラーの人々に学歴は必要ない。ホワイトカラーが大卒中心なのは、抽象的・論理的思考能力や計算能力、社会に対する知識が必要とされる職種であるからだ。大学入試なんてのは広範な高校卒業レベルの知識を持った人を選別するために行うものであり、将来のホワイトカラーを想定しているわけだ。高校で勉強すべきは、大学で授業を受けるために必要な知識と思考能力である。また、大学では自分で授業を選ぶために、分野に偏りがある。しかし、高校では広い範囲の学習が求められている。そう、高校で学ぶことこそ、大学では勉強しない基礎知識・一般常識のかたまりなのだ。それは権謀術数渦巻く社会を生き抜くために少なからず必要なものではある。
高校では勉強しなかったと言ったけど、授業は聞いていたし当然試験というものがあり、多少の試験勉強はしていた。今は自在に引き出すことができないけれど、頭の引き出しの中にはその知識が入っている。受験で使わなかったものもいっぱいあるけれど、その引き出しが今の自分の思考を形作っているのは間違いない。引き出しだけはいっぱいできたと思う。
ともかく、大学を目指して高校に入るという選択をした時点で、最低7年間社会に出ることが遅れるわけだ。今や高卒は当たり前とすると4年。その4〜7年間の社会に出るまでのブランクという猶予期間に、しかし社会についての理解は先に社会に出た人よりも広範に行われなければならない。それがホワイトカラーとして仕事をするものの使命じゃないのか。法・倫理・人間関係。いろいろな罠が待ち受けている。受験勉強という、限定された目的のために授業を行う高校など潰れてしまえ。

2ちゃんねる化?

ARTIFACT@ハテナ系 はてなダイアリーは2ちゃんねる化が進んでる。この記事内での言及先に行けないのでいまいちすっきりしませんが、気になった点。「スレの空気によって意見が多様性を失っていく」ということについて。2chの「名無しさん」という背景も基本思想も議論における姿勢も不明な存在が作り出す「空気」により意見が排除されていくものだと思っています。空気は完全に状況依存で、誰がその場をリードしているかによって決まり、その誰かさんが壮大な釣りを仕掛けている可能性だってあったりします。
一方ではてなダイアリーについては少なくとも意見を言う人のトラッキングができることが大きな違いであると思います。
2chには空気に支配されない…というかどちらかというと空気の読めないコテハンもいたりしますが、そういう人はスレ立てて攻めちゃったり。そういう点ではあんまり変わらないのかもしれませんね。でも、過去から未来を通して意見の変遷あるいは確固たる一貫性をトラッキングできるはてなダイアリーの方が暴力的空気の生成力は低いように思います。ただ、仕組みが空気を作りやすい方向にシフトしているような気がするのは気のせいか。

見て見ぬふりのできないウェブ社会

最近モヒカン族についての話がよく話題になるのはやっぱり無断リンク禁止問題と絡めてなんだろうなあと思うのです。今に始まったことではありませんが、原理主義者の主張が通りやすいという点で、無断リンクモヒカン族の好むところの話題と言えましょう。僕も含めて。ところではてブのお気に入り経由でちょっと古いエントリ(なのであえて挙げない)ですが、ネットでの儀礼的無関心が可能かどうかの議論を読んで思った。参照先が見れなくてその当時どんな議論がされたかよく分からないのですが構わず。

伝達力・保存力の違いが不幸の元

その場で見たものは、とりあえず見て見ぬふりをして自分の胸にしまっておきますが、あまりにどうでもいいことでない限り、その後の会話のネタにされることが多いと思います。日記に書いたりクラスで友達に話したり、お昼時の話題になったり。しかしその話題は現実の世界では周囲の関心を引き、噂が噂を呼びという自体が発生するか、たまたま新聞記者が後ろの席で聞いていて記事にしちゃったとかそういう事態がない限り、雲消霧散していきます。
しかし、ウェブでひとたび話題にするということは、全世界への伝達能力を持ち、またウェブ世界が跡形もなく消え去らない限り残り続けるというリスクがあるものです。つまり、現実世界では、公的空間と半私的空間(生活空間?)が分かれていて、その相互間の伝達力はわりと低いのに対して、ウェブ世界では私的空間が確立されていないため、全て公的空間に直結し、強力に伝達されていくわけです。素人さんにはそれが分からんのですよ!

リアルと区別がつかない新規流入者さんへ

というわけで、原理主義者やその方角を向いている人々は、ウェブとは本来何ぞやという問いかけにより、公的空間なんだよ、公衆の面前なんだよ、脱いだらイカンノダヨと言うことを啓蒙したい。しかし、便利ツールとしてのウェブ世界しか知らないでやってきた異人さんたちはそれがわからないのです。うっかり「無断リンク禁止なんてない」って言ったら「人の嫌がることはしないで下さい」と返される。うん、あえてリンクすることではないよ、確かに。でも、いつか貴方が過去もしくは現在の武勇伝を開陳してしまったりしたら目も当てられませんものね。怖いモヒカンのお兄ちゃんたちの言うことは聞いておいたほうがよいこともありますよ。まあ、モヒカンさんのお話は基本的に回りくどい話かストレートすぎる話ではありますからね。

僕の考えるマナー

マナーっていうのはそれを守る意思のない人にとっては意味のないもので、善意に期待するものでしかありませんが、それでも「こういうことするやつはちょっとあれだよね」という「マナー違反の人の信頼度を下げる」指標にはなりえます。と言ってもマナー自体は時間や制度、考え方の変化や適用されるシチュエーションで変化するものですから臨機応変というか、十把一絡げ的な適用はかえって反発を招くのみです。シチュエーションの限定されないマナーは役に立ちません。といいつつ、ここまでの話を元に一つ。

  • リアルでのプライベートな話を個人を特定できるようにウェブに持ち込むのは本人のみに許される

公的空間としてのウェブの伝達力、保存力を考えると、持ち込まれた人、持ち込んだ人双方にとって不幸な出来事になることでしょう。だからやらない。本人がやる分にはもちろん問題ないですよね。覚悟があるかどうかは別として。ここでいうプライベートとは、見て見ぬふりをした不思議空間も含むとしましょう。もちろん、所謂公人がメディアなどで発表した話などはこれに当たりません。噂話、楽屋話、裏話は微妙ですね。マイナスな情報のときに名誉毀損に当たるようなものはダメってことにしましょうか。今した線引きはあくまで一例に過ぎず、どこまでが持ち込めると判断するかはやっぱり難しい。これは、現実世界でもしばしば判断を誤り、結果としていじめに繋がったり、失脚に繋がったりするものだったりしますから、ウェブだけの問題であるとは言えないと思います。線引きをすること自体が主体者のモラルと状況に依存するわけです。マナーなんてそんなものでしょ。

じゃあ、ウェブで発信されたものはどうか

これはもう再三述べているように、発信しちゃったものだから伝達されるのはしょうがないし、言及でもリンクでもコメントでも何でもしたい放題されたい放題。これは現実。一度発信したものは引っ込まないのです。たとえ、仲間内しか見れないところでこっそり言及したりなどしてもその行為は結果としてポインタを増やしたことになり、その連続が広まっていきます。もしかしたらそれだけの価値がない情報で、上手く消えてなくなることができるかもしれませんが、自らの意思でそれを行うことができない現状では、どうしても発信することのリスクを念頭において欲しいわけです。

結論

現実でも悪意のある(または使命に燃えるetc...な)パブリッシャーにたまたま引っかかってしまった場合、通常儀礼的無関心によりスルーされる行為が喧伝されるということがままあります。ウェブ社会では、それだけではなく、本来独り言や仲間内のひそひそ話に属する行為からも広まる可能性があります。スルーしてよって思うかもしれませんが、本人たちはスルーしてこっそり話しているつもりかもしれません。あなたがこっそり発信しているつもりなのと同じように。見て見ぬふりをして陰で話す行為は仕組み上できません。そして、気になったけど心の中にとどめておいた話ってどうやったって誰かにしたくなっちゃうものです。王様の耳はロバの耳なんですってば。言っちゃダメだと分かっていてもつい言っちゃうんですって。
だから、覚悟を決めましょう。

逆ギレ

http://d.hatena.ne.jp/jyl2142/20061028#p5 *1あんまりな言われようですが、猛省すべきはこんなのにまでウェブを使えるようにしちゃったIT業界かもしれん。しかし、PCエンジニアって言葉はあまり聞かないな。作家としてファンタジーが現実を侵食している様は気の毒ではありますが、仮にも電子出版云々というのであれば、もう少し勉強して現実を見つめて欲しいものです。

*1:なんか引用しつついろいろ書いてみたがしっくりこないので消した。

モヒカン族あるところケンシロウあり

ものすごく既出な気がしますが…
実は正義を押しつけているケンシロウがいるんじゃないか?どちらも場の空気に関係なく暴力を振るいますが、弱者に強いのがモヒカン、強者に強いのがケンシロウケンシロウは対話の余地がありますが、納得いかないと秘孔突かれてモヒカンもボスもみんなあべし。
南斗聖拳の使い手を自負する人はケンシロウには近づかないが吉
なんてことを考えた昼下がり。なんか違う気もする。

三重県人権センターの件

無いはずの裏2ちゃんねるに家宅捜索、証拠隠滅の疑いでひろゆき氏指名手配、と言うシナリオを妄想。最近の警察と司法と報道の癒着っぷりを見るとあながち妄想では無い気もしますが…
オーマイもそうだけど、素人が偽情報嘘記事垂れ流してそれを信じちゃう人が増えているのが怖い。「嘘を嘘と(ry」な人以外はイソターネットは使っちゃいかんのかも知れぬ。