なぜ家族の価値観に踏み込むような「数値目標」を設定するのか

相変わらずな感じでは有りますが、何故か日本の政治は「規範的生活」なり「規範的家庭」みたいなものを強くイメージして政策を打ち出すようなことをするんでしょうか。

「家事育児をしない男性をゼロにするための政策に予算をつける」

少子化相「家事育児しない男性ゼロに」 :日本経済新聞

これって家族のあり方(家事の役割分担を含めた)を政府が規定するってことにほかなりませんよね。アホですかね。ゼロとか言うのがアホなだけで、実際にはそこまで考えてないとしても政治家なんてイメージ商売なんだから大臣たるものがこういうコメントを残してしまったらダメなんだと思うんですけど。

国全体として少子化対策をしないと先細りっていうことはもちろん問題なんですが、多様なライフスタイルを許容する社会のもとでこういう画一化された価値観を押し付けるってのは文化的には後退です。

とはいえ、現実には男性が育児に参加しづらい社会的制約(主にサラリーマン的事情)があるのは確かで、それを軽減するための政策を打ち出す、ということ自体は悪いとは思いません。ただ、家庭によっては家族間の合意形成の元、適切な役割分担の結果として主に家計の収入を担当するもの(男性でも女性でもいい)と育児を行うものに分かれることがその家族の幸福(収入の安定からなる結果的なものかもしれないけど)を最大にすることを目指すのであれば、それはそれで幸せな家庭であると言えますよね。

そもそも、「家事育児をする」判定は一体どうするんでしょうか。数値目標を立てたからにはそれを達成したかどうかも数値で判断されるわけですから、評価できないと意味がありませんけどね。

まあ、会社からのドロップアウトの理由を育児が十分にできないからなんていう言い訳にしてしまうような人が成立する程度には日本社会の子供がいる家庭へのケアは不十分だと言えますし、繰り返しになりますがその点において予算をつけるのはいいと思うんですよ。でもこういう目標作っちゃうと例えば「0〜3歳の子供がいる社員は勤務時間を強制的に減らす」とかやりかねないですよね。んで、会社への補助は代わりの人間を雇うのに使われて、当の本人は残業代が減ったり賞与が減ったりして収入減、これなら子供がいないほうがマシ、ということで余計に少子化が進んだりしてね。

政府の役割は、目的のために適切な手段を提供することであって、結果を強制する必要はないよね。もちろん、測定して効果が十分でなかったら見なおせばいいだけであって。