国民総無責任時代

新小児科医のつぶやき その日が来たか・・・。ついに現代日本の抱える最大の問題点が最悪の形をもって世にしらしめられたわけです。これは医療の問題ではなくて、共同体としての社会の変質に他なりません。行政の問題ですらない。法治主義の最悪な部分が顕現してきるものでもありますが、国民一人一人の問題なのです。
註:以後、医療や法律に関する記載については私は専門家ではないこと、また全くの主観により書かれているため事実誤認を含む可能性があります

なぜ搬入が拒否されるか

この十字架についてはネットに参加する医師の間では既に常識化しており、「ロシアン・ルーレット」とか「ババ抜き」と表現されています。患者の為に医師の使命感に燃え、無理を承知で引き受けたものが破滅する怖ろしいシステムです。この十字架は都市伝説の類ではなく、立派に司法の場で繰り返し断罪され判例となっている事実なんです。

医者としての使命を果たそうとすると結果として破滅する。司法も守ってくれない。いや、それどころか罪だと断じる。なぜか。それは、法律を解釈するとそうならざるをえないからであり、司法自身の責任ではない。それでは医師に責任があるのか。どうやらある。受け入れた時点で生じる。しかしその責任が自分(あるいは現場)のキャパシティーを超えたものであるのであれば受け入れてはならない。それが引き受けるということだ。少なくとも判例から言うとそうだ。では、何故昔は救急医療が機能していたのか。

問われるのは最終的な結果の責任ばかり

そもそも医者と言うのは患者に対してベストを尽くして直せるように努力するのが仕事である。医者にかかった時点で患者はリスクのある存在。自分の健康・家族の健康は自分で守るのが筋であり、それでも病気にかかってしまうことは生物として仕方の無いことであり、また不幸な事故にあってしまうことは文字通り不幸なのである。医療の結果として治癒することは幸運なことであり、感謝しなければならない。ところが、その自己の責任を全く省みず、結果として直らなかった、障害が残った、死亡したことを医師の責任にのみ転嫁することがままある。医師がベストを尽くしたかどうか、素人目では判断できない。だから医師を責めることは自然な感情として仕方が無いことと思う。しかし、原因とそれに伴う結果に対して責任を取るべきは患者本人だ。医師ではない。医師は自分が出来る限りのことをしたかどうかについてのみ責任を問われるべきであり、つまり過程において責任がある。つまり、専門内での明らかな誤診や処方のミス、緊急性を伴わない状況での未熟な技術の行使、患者取り違え等「有ってはならない」レベルのミスは明確に医師の責任である。それ以外を糾弾すべきではない。
「仕方が無かった」という言葉が社会的に有効だったから、患者(あるいは遺族)は事故の責任を思い、医師の努力を思い、折り合いをつけていた。しかし、厳密な法解釈のものでは通用しない。人としてそんな野暮なことをしなかっただけである。というよりは、コミュニティーのモラルとして、医師を断罪し、廃業に追い込むことは自分の首を絞めることになる可能性が大であるから許されないことであったからだ。

訴訟社会

訴訟を行うと言うことは、当事者間で解決できないことを法に基づいて白黒はっきりさせようと言うことである。紛争と言うのは本来当事者間で解決されるべきものであり、または小さいコミュニティーの中で解決されるべきことであり、それでも解決しなければ…というように次第に法的な場に近づいてくる。それを一足飛びに行うことは、地域のルールを乱すことにもなりかねない(もちろん、それしか手段が無い場合があることは否定できない。地域ぐるみで敵に回る等)。なぜなら、個人の利益よりコミュニティーの利益のほうが大事だからである。ところが、コミュニティーに属さない人間が増えてくると個人の利益を求める割合が増大する。ここで社会と個人のアンバランスが生じ、求めるものは正義から利益にシフトしていく。

PL法みたいな

個人が製品のせいであることを立証するのは困難であるから立証責任を企業に属させましょうという法律であるが、それを盾にとって空気の読めない責任追及を行うこともまた社会の利益とは相反するものだ。(都市伝説では有るが)猫を電子レンジに入れた責任が問われないと言うのはおかしい。何もしていないのに爆発したならともかく、トリガーを引いたのが自分である以上はそれなりの責任がある。不備を突くのは甘えだ。

本末転倒の事態

例えば、子供を手遅れで無くすような事態があったらそれは不幸なことだ。しかし、その責任を無理やり医師に押し付けることで、小児科医がいなくなり、次の子供は診療する機会すら与えられないかも知れない。自身のことを考えたってそういう可能性があるというのに、地域には何件子供のある家があると思うのか。

社会と文化と個人主義

そんなわけで、自分の責任を認めなくなる傾向が日本の社会のバランスを崩している。日本の、まず「すみません」と言える文化は素晴らしいと思う。何がしかの責任を自覚した上で対話に入るのだ。相手を慮る気持ちが第一にあるのだ。その気持ちが蔑ろにされたとき、初めて行使すべき手段に出ればよい。行き過ぎた個人主義はまず社会の首を絞め、個人を緩やかな自殺に追い込む。

ドンキホーテにならないために

それでもドンキホーテはいるでしょうが、ドンキホーテはやがて各個撃破されて消えていきます。医療の焼野原への大きな曲がり角を通り過ぎた事件と私は思います。

各個撃破されないためになにができるだろうか。幸い、我々は時間と空間と立場を超越したインターネットの世界という大きな可能性の元にいる。地域というコミュニティーは消滅の危機を迎えているが、それに変わるより強固な、発信力のあるコミュニティーの可能性が目の前にある。

私としての責任を見つめなおす

とはいえ、現実の世界はより一層私人の責任を問わず、公人の責任を問う方向に進んでいるように思われる。それは私人としての我々が様々な手段で責任を公に押し付けているからだ。しかし、これが行き過ぎると仕事上の本来責任を問われるべきでないことに対しても積極的に責任を問う社会になりかねない。そして医療の現場は既にそうなっている。世のサラリーマン諸君は自分の仕事がそうならないと言い切れるのであろうか。この混沌とした時代こそ私としての責任のあり方を見つめなおし、次の社会の有り方を考えていく節目なのではないだろうか。