団体サイトと個人サイトと

はにっき - 高木浩光氏は何様のつもりなのかを読んで「法律作れよ」との言に反射的に反応しそうになりましたが、ちょっと落ち着いて考えてみることにしました。コメント欄でも「仕組み弱者」という言葉が使われていますが、インターネットが技術者だけのものではない以上、そういう人たちのことをきちんと考えるべき時期に来ているのでしょう。もちろん、今まで(それこそインターネットと言う言葉が一般に広く知れ渡る前)も無断リンクについての議論と言うのは多くされてきました(ここで過去の議論などを発掘されています)。また、この想定問答集を見ると今回湧き出してきたような議論は過去も一通り行われていることがわかります。それを踏まえたうえで。

原則論

まず、再三主張しているように、団体・個人に関わらず、「無断リンクは禁止です。勝手にリンクした場合は〜〜します」という訴えは有効ではない。法律的にはもちろん、リンクは所詮アンカータグでURLを書いてあるHTMLの記述であり、記述自体はリンク先ではなくリンク元に所属するものである。よって、リンクそのものは禁止しようと思ってもできない。

ページを公開するということについて

インターネットを利用するために必要なのは少々の投資(パソコンや携帯など)と基本的な知識だけである。免許など必要はない。利用するだけならば道を歩いているようなものだが、ページを公開するのは自転車に乗るくらいのものであって、いずれにせよやり方さえ知っていればよい。歩行者や自転車でのマナーは、未然に事故を防ぐという明確な目的があり、信号を守ることや、区分を遵守すること、むやみにベルを鳴らしてトラブルの元にしないなど一通り小学校あたりで教わることと思うが、インターネットのマナーについてはこうはいかない。教えるところも出てきているだろうが、事故の概念やケースが多岐に渡り、社会的な意見の一致も見せていないことであるから、かえって嘘を教えてしまうことになりかねない。
しかし、純然たる事実があって、最低限それだけは利用する前に教えておくべきことがある。それは「ウェブページは誰でも見える場所に公開されている」という事実。一度Webという世界に出してしまったものは、少なくとも自分の思う通りに抹消できるものではない。インターネットには個人が溢れているが、決して「私」を保障した場ではない。

団体と個人

高木さんのところで綺麗にまとめていますが、団体サイトについては、その目は厳しい。団体サイトに対しての無断リンク禁止なんてナンセンスと言う話は、「もっとよくできるんだから、ちゃんと努力しようよ」ということだと述べつつ

単に「もっとよくできるんだから、ちゃんと努力しようよ」の運動だけであれば、まあ、個々の団体サイトが自己矛盾したポリシーを掲げていても、「放置しておけばいいじゃないか」ということにもなろう。だが、それだけでは済まないケースも現れ始めてきた。それが、栃木県警察の事例だ。一部には、「リンクしているということは、リンク元はリンク先の団体に認められた団体だ」という誤解が生じ始めているらしい。これは、フィッシング詐欺を防止する観点から、そのような誤解をなくしていかねばならず、リンク許諾制は、むしろそれを助長することになるのだから、やめるべきである。安全なWeb利用の観点から、アドレスバーを確認することと、リンクはリンク元にのみ責任があることの理解は、すべてのWeb利用者に最初の一歩として学習してもらうべきものである。

としている。団体、特にある程度社会的な影響力が認められると思われる団体は、その言動が無知な閲覧者の誤解・妄信を招き、またそのことに団体が責任をとれるわけでないから、特に気をつけなければならないことである。
個人サイトの場合はインターネットと言うものの本質とは別の場所で、利用者の想いが発生する。その想いは様々であり、それぞれが固有の目的やマナーを生み出すが、社会的な責任は基本的にはない。主張することは自由であり、何物にも制限されない(明らかに名誉毀損などに該当する場合以外は)。ただ、何がしかのデータを公開し、閲覧すると言う本質から外れた主張は、することはできても受け入れてもらえるとは限らないだけである。

個人サイトについてさらに

とはいえ、インターネットと言う便利な世界を使ってコミュニケーションしたいという場合、そのコミュニケーションは現実の世界と同じく、ある程度私的に閉じていたいものである。現実の人間関係もそうであるし、同好の士を求めてその共通認識のある世界でコミュニケーションしたい場合、異分子の存在を排除したいと言うのは当然の要求である。しかし、インターネットの場が「公開」を基本としている以上、完全に排除することは難しい。アクセスコントロールは必ずしも解決の手段にならない。検索で引っかかって来訪する人たちもターゲットにするのであれば、アクセス制限はその可能性を減少させるし、誘導もしにくい。完全に私的な場を作るのであれば、アクセスコントロールは有効であるが、それなりのコスト(手間や費用)がかかる。つまり、そういうものなのだと割り切って使用する分には問題は起きないけれど、内容について別のところで罵倒されたり嫌がらせを受けたりと言う行為を甘んじて許容しなければならない事態というのは受ける側からは理不尽なものと感じる。所詮個人の感じるものや考えることであり、知らない誰かから一方的に糾弾されるいわれは無い。
一つここでいっておくと、あくまでこのことは、趣味嗜好や思想の問題についてであり、犯罪行為(すれすれも含め)や不正な利益誘導など、社会的に許容されない物事についての文書はそれを「公開」している以上、糾弾されても文句は言えないと思う。また、誤解・思い込みに起因する間違った啓蒙活動は当然突っ込まれるであろう。ほおっておけばいいと思う人もいるだろうが、二次的被害者を出さないためにもあえてきちんとすべきだという考えの人もいる。疑似科学などは現実の世界に影響を及ぼしかねない(極端なことを言えば誤った認識に基づく世論の形成を利用した立法行為などが発生しうる)。
この問題を上手く解決し、また誰でも簡単に実現できるという方法は今のところ無い。アクセス制限やディープリンクの排除などはそれなりにコストをかければ実現可能であるが、高木氏はこうも言っている。

しばしば、個人サイトが「紹介禁止」(無断リンク禁止)を掲げているところへ、「見られたくないならアクセス制限かけろよ」と言うような人が出てくるが、知り合いにだけしか見せないつもりでやっているわけじゃないのだから、そのような要求は受け入れられないこととなる。彼らのしたいことは、不特定多数には見られたくないが、まだ出会ってない友人とは出会いたいという願望を達成することだ。
これを技術的工夫によってそのような場を提供できないかという話は、過去にも話題になったことがあり、何人かの人がアイデアを書いていたのを見た。今日も、「雑想日記」の「イソターネットもあっていいかも。」にその種のことが書かれている。
mixiなどの現状のSNSアーキテクチャではその要求を実現できていない。だから、「友達まで」に制限する設定をしないまま、公共の場に相応しくない発言をする輩が後を絶たないわけだ。
何か作りようがあるのではないか、やってみてはどうか、という話は、去年だったか、はてなの近藤さんに話したことがある。
もしそれがうまく実現でき、ネットでの私的空間と公的空間を気持ちよく分けることができたなら、「公共空間ではどのような批判も受け入れるべき」ということは正当な主張となるだろう。そこでは「無断紹介禁止」などあり得ない。

これは、もはや無断リンク云々という話ではなく、WWWという空間の今後という話である。あくまでウェブは「公開する」ということを基本に成り立っている公的空間である。その上では実現できない私的空間を擬似的に作っているという現状は、容易に崩壊させることができる。それは仕組みがそうなっているからであり、マナーとかモラルとか、そういったものが仕組みを救ってくれるわけではない。私的空間を作るためにはどうしたらよいかをこれから考えていかなければならないように思える。

仕組み強者など居ない

原則論は現実論でもあり、ウェブが公的空間であるという現実を理解しているだけである。上にあげた想定問答集を見るとわかるとおり、無断リンク禁止という主張は、現実を理解しておらず、「公開」しているということを意識していない可能性がある。原則論を主張する人々が「無断リンク禁止」を攻撃するのは、認識をあらためてもらう事で、公開している危険性について考えて欲しいということもあるのかもしれない。
技術者で無い人にアクセスコントロールの実装を要求するのは確かに酷なことである。しかし、アクセスコントロールを要求する人は、大抵の場合「どうしてもリンクされたくないんならそうすれば」という話であって結局のところ「無断リンク禁止」を実現しようと試みることはとても難しいことであると主張していると思われる。公的空間のまま無断リンクを排除するのは難しいし、私的空間は構築するのが難しい(し、現状は完全なものにはならない)。仕組み強者といわれる人々は、確かに技術者ではあるが、自分の観点から難しさ、あるいは無意味さを語っているに過ぎない*1

これから

インターネットが社会的なインフラとしてここまで出来上がってしまった以上、技術的な原則論だけでは議論が完結しないのは明らかである。交通ルールと同じで利用者においても最低限の教育はなされるべきである。情報流出などの問題は個人(あるいは団体)と公的空間のつながりが本人の気付いている以上に強いものであり、またウェブという空間の時間と距離を超越した現実をはっきりと認識していないという点において発生している。得体の知れない世界に何の防衛策もとらずに入り込んだという点では自業自得と言えなくも無いが、なし崩し的に社会インフラとして使われるようになってしまったインターネットは本質的に脆弱なものである。インフラ化する側の責任としては、必要以上に負荷がかかる教育という手段だけではなく、意識しなくてもある程度のラインでは問題が起きなくなるような仕組み的な解決もしていかなければならないのではないだろうか。

*1:もちろん、本気で仕組みで解決しろと言っている人もいるだろうから、仕組み強者などいないと言い切ってしまうと言い過ぎかもしれないが