責任の偏り

この記事を読んで暗澹たる思い。我々IT業界の人間も予見可能性が低いことへの挑戦を続けているわけで、他人ごとではない。いちかばちか、緊急な判断を要する職業であれば、何度と無く直面する状況。最善を尽くさなかったことではなく、最善を尽くしてもなお及ばなかった事に対して、また最善を尽くすことができないのがわかってあえて身を引いたことに対してあまりにも酷な仕打ちをする社会的な意味は一体何なのか。行政とは司法とはまた政治とは、個人が社会的責任を最大限果たせるようにするために努力する機関であり、最善を尽くしたものを糾弾するための機関ではない。人生が壮大なババ抜き(しかも引いたらほぼ退場確定)になることは誰も望んでない。たまに相手のカードが透けて見える人までいるし。
感情と理性。人間と言う理性は、過去何度も過ちを犯しながら、種が存在するための最善の手段を選択しようと努力してきたはずだ。医療・農業・天文学、その他多くのものが数々の失敗・誤解・迫害を乗り越えてここまで進化してきた。一時の感情に流され、あるいは一握りの権力者の利益のため、ゆがめられてきたことも数多くある。しかし、着実に進歩し、昔であれば救えない災害を乗り切ることを可能にさせてくれた。
その利益はしかし、100%誰もが享受できるわけではない。例えば、ある病気になったときに助かる確率上がっているだけだ。つまり、運だ。受け入れがたい気持ちはあれども、理性がそれを受け入れる。そうでないとシステムが崩壊するからだ。次にまた自分が享受するかもしれない利益の可能性を自ら排除する愚かさを考えるからだ。また、最善を尽くして及ばなかった相手を慮るからだ。行き過ぎた個人主義は自分がたまたま受けられなかった利益に対する割り切りを拒否することでコミュニティーを崩壊させ、社会までも崩壊に追い込んで行くのだろうか…