高校って、受験勉強しに行くところだっけ?

耐震偽装ならぬ授業偽装で高校卒業の単位が足りなくて大問題。何しろ「日本史には世界史が含まれる」だの「授業名と中身が不一致」だのやりたい放題なわけだから、酷いものだ。高校の生徒は大学で自分で授業を選んで単位を計算するのと違って、ほぼ限定された選択肢の中で、つまり学校の用意したカリキュラムの範囲で選択するのですから、そこに責任を求めてはちょっと可哀想。それより何より、「大人の社会では目的のためなら不正をしてもいいんだ。ばれなければ」という大っぴらにしてはいけない、一部の人だけがやっているはずの、悪いことを、いちばん身近で「働いている」大人がやっているのを目の当たりにした生徒たちの前途が。しかも犠牲者感むき出し。
ところで、僕は公立の進学校に通っていたけれど、あまりちゃんと勉強をしたという記憶がない。というか、一部の「現役で東大はいるぜ俺は」オーラを出していた奴ら以外は部活や運動会、文化祭、生徒会活動などに血道をあげていた。それでいて大学進学実績はそれなりによかった。もちろん、進学校であるからポテンシャルのある人間が集められている。勉強がどういうものなのか分かっている人ばかりだ。多分、みんなの学校の授業に対する評価は一つの基準しかなかった。役に立つかたたないかではない。面白いか面白くないか。そして授業は面白かったり面白くなかったりした。ほとんど大学みたいな感覚で、なんでも基本的には生徒の手で運営されていたから面白かった。先生たちとも戦った。もしかしたら手のひらの上で踊らさせていたのかもしれないけれど、自分たちの主張を展開する場は与えてもらったように思う。
別に、全然勉強しなかったわけではないけど、それが受験に役に立たなかったかといえば結果的にはたったと思うけれど、それでも受験勉強をしに僕の母校に通っていたという人は少数派ではないだろうか。みんな、自分でものを考え、興味を持つものにどのようにアプローチしていくかを学んでいた。方法論を。大学に入ったとき、周りの同級生たちの大半はそういったことを経験していなかったらしい。ぬるいサークルでぬるい活動をしている奴らを見て、「お前らは高校生かまったく」と余計な感想を抱いたことも一度や二度ではない。公立の進学校というのはそういうものだとずっと思っていたのだけれど。
こういう言い方をしては失礼かもしれないが、いわゆるブルーカラーの人々に学歴は必要ない。ホワイトカラーが大卒中心なのは、抽象的・論理的思考能力や計算能力、社会に対する知識が必要とされる職種であるからだ。大学入試なんてのは広範な高校卒業レベルの知識を持った人を選別するために行うものであり、将来のホワイトカラーを想定しているわけだ。高校で勉強すべきは、大学で授業を受けるために必要な知識と思考能力である。また、大学では自分で授業を選ぶために、分野に偏りがある。しかし、高校では広い範囲の学習が求められている。そう、高校で学ぶことこそ、大学では勉強しない基礎知識・一般常識のかたまりなのだ。それは権謀術数渦巻く社会を生き抜くために少なからず必要なものではある。
高校では勉強しなかったと言ったけど、授業は聞いていたし当然試験というものがあり、多少の試験勉強はしていた。今は自在に引き出すことができないけれど、頭の引き出しの中にはその知識が入っている。受験で使わなかったものもいっぱいあるけれど、その引き出しが今の自分の思考を形作っているのは間違いない。引き出しだけはいっぱいできたと思う。
ともかく、大学を目指して高校に入るという選択をした時点で、最低7年間社会に出ることが遅れるわけだ。今や高卒は当たり前とすると4年。その4〜7年間の社会に出るまでのブランクという猶予期間に、しかし社会についての理解は先に社会に出た人よりも広範に行われなければならない。それがホワイトカラーとして仕事をするものの使命じゃないのか。法・倫理・人間関係。いろいろな罠が待ち受けている。受験勉強という、限定された目的のために授業を行う高校など潰れてしまえ。