ここがへんだよ著作権1〜なんとなく歴史

芸術と娯楽は似て非なるものであるとも言えるし、あるいは芸術こそ娯楽と言えるかも知れない。文字を書き連ねたものはしかし必ずしも娯楽ではなく、社会を生き抜くための情報だったりもする。いずれにせよ、メディアを通じて流通される情報はビジネスのタネである。メディアという存在があって初めて著作権ビジネスが存在するわけだ。法律とか歴史とか背景は色々あるだろうけど、とりあえず今回はあまり調べず思ったことを書いてみよう。

昔々

「この歌は俺が考えたんだよコノヤロウ。お前一文字変えただけじゃねーか」「知るかボケ。うちの村じゃ俺がいちばんの歌い手なんだから黙ってろ」みたいなやりとりがあったかどうか。しかし、文字と楽譜の発明がない限り、歌い継がれることでしか伝承されないもの。あるいは、少しずつ形を変えて広まっていくもの。琵琶法師が全国を歩けば人々が涙する。琵琶法師は太古の放送だ。
紙メディアは複製ができない。いやできるのだけれども、人の手による創るのと同じだけの手間(無論、頭の中で創作している時間は含まれないが)がかかるものである。駄作はそれだけの価値がないから伝わらない。パクるという発想はそもそもない。全てを知っていることが教養の証。パクったらばれるし。でもリスペクトは盛ん。本歌取りとか。そんなわけで、生み出されたものも大事だけど、生み出す人そのものが財産に近い。そして、物を持っている者はしかるべき地位にいる。この時代、書物を抹殺することはさして難しいことではなかったはずだ。

悪魔の大発明・活版印刷

発明と言うか、実用化だけれど、まあ15世紀位に起こった革命的な事件。それまで取り扱い困難であった紙と言うメディアが一躍スターダムにのし上がる。コストが下がったとにより、今まで持てなかった者の手にも入るようになった。持つことによる優位は後退した。持つためのコストは今までは持つことによるステータスの代価として払われていたけれども、出版できるようになったら、出版物を直接売りさばくと言う新しい商売が誕生したわけだ。こうして、印刷屋ギルドによる利益の独占が始まった。出版する権利(なんたってコピーライト、だものね)。永久な独占。ん、なんかに似てない?
「俺にも分け前よこせ。だってそれ俺が書いたんだよ。」著者は言う。「そもそもさー、誰に出版させようかなんて俺の自由じゃないの?」。その他の法整備とともにこの辺の権利も整っていくけれど、法律の思想が各国で違うから、できていく権利も違っていて、今に到るわけだ。

著作者の生活

著作者がどうやってご飯を食べていくか。

  • 印刷以前
    • 偉い人に食わせてもらう。お礼になんか書いて満足してもらう
    • 俺貴族。収入あるから趣味で書く
    • 他に仕事あるし、生活はそっちでできるからね。趣味趣味。
    • 俺書くしか能ないんだよ…。ひもじい
    • 書くのが仕事です。お役所からお金貰って書いてます。歴史とか。
    • 書くのが仕事です。弟子の教授料で暮らしてます。先生思想書だしちゃうぞー。
  • 印刷以後追加
    • お前は俺が食わせてやるからとにかく書け。(どうせ印刷したら儲かるしな…)
    • 僕書く人、貴方売る人。売れたら分け前頂戴ね

こんな感じか。なんとなく、儲かる可能性が見えてきたよ。

音楽とか、絵画とか

音楽を定着させる技術は新しい。作曲者の意図=演奏かどうかと言うと、ほとんどの場合完全にはマッチしない。だから、演奏は著作物であるのか?いや、音になるまでは楽譜はただの記号の羅列にしか過ぎない。演奏こそが真の著作物であるとも言える。まあ、両方ないと成り立たないんだよね。演奏がメディアに記録できるようになって、その記録されたものそのものに権利が生じるという事態が発生した。絵画はどうか。模写されるということはあるけれど、模写は所詮複製で、オリジナルを持っていること自体に価値があることは不変である。デザインとか抽象化が押し進んだところで問題がでては来たけれども。

続く。