「いじめる側が100%悪い」と言う言説

元検弁護士のつぶやき: いじめられる側も悪いのか? を読んで思った。「いじめる側が100%悪い。」に対して「いや、いじめられる側にも原因がある。」と言う反論を行うのは確かに反論になっていないと言う点で、無意味なことだ。ただし、これは「100%悪い」という言葉についての自然な反発のように思えてならない。
「100%」という言葉が正しい場合、これは全体に対する割合であるから、物事の総量を決めてそれに対して全てだと言っているということだ。そもそも総量を量れるようなものではないのにここで100%という言葉を使うと当然「いじめの原因」という量らなければならない対象が暗黙的に生まれてくる。すると、それに対する反論は「100%じゃないよ」というようにならざるを得ない。
つまり、物事を相対的に捉えた場合に「絶対」を論じるのであれば、捉えている対象を明確にしなければ本人の意図しない論点での反論に答えられなくなってしまう。いじめには必ず原因があり、その原因はケースバイケースの極みである*1から、「原因はいじめる側にある」とは断言できない。悪いのは「いじめという絶対的な行為」であり、これは社会がそう規定したわけだから、相対的ではなく、絶対的なものである。これはみんな分かっているはずだ。じゃあいじめが大人の世界でもあるのはなぜか。その実際に行為を行っているものがいじめという認識していない、または悪に対する許容量が大きいから「やってもいい」と思ってしまっているからだろう。「いじめかっこ悪い」というキャンペーンは、問題の直接的な解決にはならないだろうから、あまり好きではないのだけれど、「いじめは悪いものだ」という共通認識をきちんと言っているという点では十分存在価値がある。
さて、晴れていじめが絶対的に悪いこととなったのであるが、それは行為そのものについてであり、実行している人が悪そのものであると言っている訳ではない。ここで、いじめる側という人格といじめられる側という人格、周りの環境などを分析し、どこに原因があるかを探っていくことが(そのケースにおける)解決の道である。いじめが悪いものであるという絶対的な評価が揺らがない限り、いじめられる側の原因を探ることが更に問題を起こす可能性は少ないだろう。ただ、往々にして「何とか君も何か悪いことをしたからこうなったんじゃないの?」的尋問が行われ、いじめの「悪」と原因の「悪(とは限らなく、きっかけの場合がほとんどだが)」の相対化が行われる。いじめっ子が言い訳をするときに「あいつ」悪いんだ、というのも相対化である。
いじめという行為が「人として悪」だと言うことを十分認識した上で、悪を貫くケースもあるだろう。そこまで行ったらなんらかの手段で「悪」を排除しなければならない。人そのものが悪であれば更正させるか見捨てるしかない(と言っても社会に放置したら害悪なので何とかする必要がある)が、そうでないのであり、本気で解決しようとするのであれば、きちんと行為と原因を切り離して解決すべきだ。むろん、行為に対する罰は別途必要なのではあるが。

*1:故に、何か一つの決定的な要因があるかのように議論される昨今の政府・マスコミの風潮を憂慮はしている