耳の痛い議論

酒とアザラシと怠惰な日々。 - 「ニセ科学に立ち向かう」を聴講した。
のコメント欄でのやりとり。藤原という人が異を唱えていて、きくちさんまで登場して激論。否定する根拠がないからニセ科学ではないとおっしゃる藤原さん。それに対して悪魔の証明だという否定派。これね、結構頭の痛い問題なのです。
通常心理学では客観的に証明できるずばりそのものな結果はでません。人間というものの個体差のいちばん大きい部分を見るわけですから、究極的には「全部異なる」にならざるを得ない。それだと研究する意味がないから、ある程度共通項で括りだせるところを見つけていく学問で、統計に依拠しています。この点を突いて「心理学は自然科学ではない」とおっしゃる方もいますし、それは見方によっては真実であるためそこを主張されると困ってしまうことも多いのです。もちろん、研究している人は、統計学的な正しさを以って学問として成立させようと努力してきましたし、それは成功していると思っています。ここのところを否定される方は、「心理学はニセ科学だ」と言っているのと同じですから、議論になりません。分かり合うことは諦めます。
ところで、心理学での仮説検証では「帰無仮説」を立てて、その仮説を否定することで、実際に肯定したい内容を証明するのが一般的です。帰無仮説とは「ある事柄に関して、実験の結果、差がないことが判明した」という仮説です。これを否定することができれば結果として「差がある」ことを示すことが可能です。なぜこんなまどろっこしいことをするのかというと、「差がある」ことを前提にすると100%の結果が必要です。が、先に述べたように、心理学の対象になる人間の心理はそこまで明確にプログラムされたものではありません。逆に「差がない」ことを前提にすると、「差がないとは言えない」という結論に達すればよいわけですから、誤差の%を取ることができます。すなわち、確率分布的に誤差の範囲内であれば、差がないとは言えない、よって差があると考えられる(ここがポイント、あくまで「差がある」ではなく「有意な差があるといえる」です)ということになります。心理学は統計的手法での統計無しには何も主張できないのです。
所詮そんなものですから、その大前提のところを突かれると結局「心理学は科学か」という大命題を議論していることになってしまい、個々の問題に対しては答えが出ません。もし心理学がニセ科学でないと認めてくれるのであれば、少なくとも以下の点については議論の余地がありません。

  • 血液型性格診断の実験では血液型と性格の相関において有意な差がでなかった…故に現時点での調査では「相関がある」という仮説は証明できない

このことは、後続の調査を否定するものではないです。なので、新たに(統計学的に正しい)調査を行い、肯定されればその時点で仮説が検証済みの説に昇格します。証明されるまでは否定されたという結果しか残らない。したがって

  • 血液型と性格に相関があるという主張は(現時点では)誤りなので、実験結果を示さないその手の主張はニセ科学(検証結果の無視)

という考え方はそれなりに認められるべきであると思います。ただし、ここで「ニセ科学」という言葉を使うのは強すぎるようにも思えます。現時点で相関を見つけ出せなかったことから積極的に肯定できないだけであり、信じている人に「でもその話は"証明されていない"んだよ」ということはできても「その話はウソだ」とは言い切れないからです。繰り返すとここに心理学の科学としての苦しさがあります。
藤原さんがいうところの「十分な根拠がなく相関がないというのはニセ科学」というところに関して言うと、「相関があるとする十分な根拠がないから(ニセ科学というのではなく)現時点では心理学的に否定されている」というのが正しいことになります。少なくとも、否定論者いうところの

『「血液型と性格が関連する」という仮説は破棄できません』自体が科学の方法論から外れたナンセンスな主張です。

だけは(現時点ではという注釈付きで)認めてもらわないと心理学が科学として成り立たないのです。相関がないことを100%検証することはあることを100%検証することと同じく不可能であります。相関がないことを100%証明できるまでは全ての可能性が成り立つ、としたら全ての仮説は「わからない」という結論にしかなりません。それがここでいう悪魔の証明帰無仮説を否定して得られた結果というのも「統計的に」相関がある可能性が高い(誤差の設定次第で結果が変わってしまう程度のものです)というレベルの話ですから、「証明された」と言うのも実は本当には「わからない」のです。誰が何回やっても100%の答えが出ない限り。
そこの苦しい事情、察してもらうわけにはいかないんでしょうかねえ。