本来の議論において、実名も匿名も関係ない

議論と運動

死ぬ死ぬ詐欺」問題をはじめとする匿名言論卑怯論は2ちゃんねるという環境の中で醸成されてきたいくつかの空気に対する反応ではないかと思っています。つまり、単に匿名というだけではなく、それに「数の暴力」が掛け算されたことによって起こる現象がどうにもなあ、という話なんじゃないかと。
これはどういうことかというと、以下のような話なんじゃないかと思います。
感想レベルの稚拙な意見であってもそれが共感を呼べば正義と化すことで、まっとうな意見を言っても工作員呼ばわりされたり本人乙と言われてしまったり。もちろん、本質を突いていることもありますが、どちらも仮説でしかないのに、個対多の戦いになってしまうことで客観的ではなく主観的に、すなわち数が多い方が合理的かどうかは問わず優勢になってしまうことがままあります。ある仮説が優勢になると、その裏を取ろうとする動きが始まります。公と私の微妙なラインまで踏み込むことは、個人的な調査であればかなりの覚悟が必要ですが、この場合、一人の運動員として調べたことを載せるだけ、あとはみんなが評価してくれという形で「ただ調べただけ」という立場をその正体を明らかにすることなく実行可能です。しかも、多方面アプローチが多人数で出来る。その断片を組み立てることで、更に多数派の説が強化されていく。
でもこれって、「匿名による議論」ではもはやないですよね。これは「匿名による運動」です。2ちゃんねらーが忌み嫌うところの「プロ市民」とそれほど話は違いません。プロ市民(本当にいるとして)が「自分たちの利益のために運動する」のであればこれは「自分たちの正義のために運動する」団体で、しかも匿名(これもプロ市民でいう黒幕みたいな)なのです。もはや議論ではなく自分たちの信じるところを世の中に推し進めていこうとしているのです。匿名による社会運動はどこまで許されるか。啓蒙し、世の中を変えていこうというのはもちろん問題ないと思いますが、対個人に対して行うのはすでに社会運動からはかけ離れていると思うので、そこの線引きはしっかりとしていかなければならないんじゃないかなあと思います。自発的なガイドラインを作るなりしてね。少なくとも匿名でやるのはこれ以上社会として容認できないという線を越えなければ卑怯と言う言葉はでないと思うのです。

議論における立場と責任とは

というわけで、そもそもこれは議論じゃないと言う話に文字を費やしてしまいましたが、純粋に議論として話をするときには匿名であること、実名であることがそれほど問題になることはないと考えています。先のエントリ草日記 - インターネットでの「議論可能性」を保障するものは何か?で言及していただきましたが、極端な例は特殊な事例とするとして、それ以外の場合における「顕名」のアイディアは一つの手段としてはありなんじゃないかなあと思います。ところで、僕は先のエントリに関しては「責任と言う観点」では対等になれないと述べました。議論における責任とは一体なんなのでしょうか。
純粋に論理的な議論においては、実名かどうかは完全に意味を成しません。全てはその議論の中に内包されています。そこにおいて立場などという外的要因は純粋さを阻害するものでしかありません。もちろん、その結果として立場が崩壊することはありえますが、議論とはそういうものであるのだから仕方がない。ここには前提としての責任は存在しません。ありうるとしたら、議論の過程の中で別のことに言及し、あるいは人格を否定すると言った行為に及んだ場合などの本質的ではない部分に限られるのではないでしょうか。
ある物事に対して議論するとき、それが純粋な議論になりうるかどうか、と考えると、議論の前提として社会・立場・人間関係等が持ち込まれたときに初めて実名と匿名による責任の差異が生じます。実名vs実名では結果としてどちらかが立場を失うことになるかも知れません。もちろん、ならないかもしれないけれども、可能性としてありうるという時点で、そこを意識しないとお話にならない。匿名vs匿名ではどうか。どちらも名無しさんであれば純粋な議論になるのか。必ずしもそうではありませんよね。ただの罵倒合戦になることも多い。なぜかというと、「純粋な議論をする気がある同士」で議論しているとは限らないからです。
つまり、純粋な議論になるかどうかは、立場の要因と言うのは実は副次的なものであって、「しようとしているか」と言う意思の方が要因としては遥かに大きいと考えています。議論の前提として立場を持ち込むと言うことは、議論の中身以外の何かを賭けた戦いの部分があるということになるし、そうであれば実名vs匿名の場合の実名不利は自明です。一方的に担保を差し出すわけですから。だから、純粋な議論をしたければ、あえて匿名になると言う選択肢があるということなのです。
それでも実名vs実名に拘る一つの理由として、決着の付け方において、立場が(逆説的に)ものをいう、と言うのはあるかなと思ったりもします。つまり、今までの自分の議論を捨てて、議論じゃない攻撃などに走って最後は逃げ去るというような結果として時間の無駄な結末を迎えることを抑制するものとして、「責任を取る」というものがあってもよいのかなと。これは、自分の発言に責任をもつ、というよりは、ちゃんと議論をすることをそれによって担保する、という意味です。議論に負けたからといっても失うものはその論だけであって(その論そのものが飯のタネである場合を除いて)、社会的な地位を失うことはありません。しかし、議論を放棄し、また罵倒したり中傷したりすることで結果として失うものは大きいでしょう。
ところで、実名で発言しながら結局そういう事態に陥っている論客は(最近目立つ某などの)例を挙げるまでもなくたくさんいます。相手が実名であっても匿名であっても同じように爆発炎上している。これはなぜかというと、やっていることが議論ではないからなのです。自分の意見すなわち正しいというものと議論することは困難です。

まとめ

これまで述べてきた「純粋な議論」と言うのはたぶんに観念的なもので、実際にはそれにまつわる周辺のもろもろが影響していることが大多数だと思います。ただそれは、議論をするという行為において、実名か匿名かの問題ではなくて、どういう点で議論したいのかどうかの問題であるんじゃないでしょうか。実名であっても「立場を忘れて」議論できるのであれば匿名と議論することも出来ると思うし、立場による先入観やプレッシャーを抜きに議論したいのであれば、あえて匿名で行えばよい。議論をする過程で必ず何かしらの責任を取る自体が発生すると言う前提であれば(本当の)実名とそれによるある程度の社会的な地位を前提とするのも良いでしょう。言論人としての存在を賭けた戦いをするのであれば、その相手が黒木ルールで言うところの「実名」であっても構わない場合もあるでしょう。
実名かどうかという問題は、議論そのものではなくて、それにまつわる周辺を制御することについての問題です。だから、起こりうる問題に応じて使い分ければよいのです。「俺の相手は実名しか認めない」という表明は、自分にまつわる周辺を制御したいと言う当然の欲求だし、認められなければならないと思いますが、他人が匿名で議論するのを眺めて「まあ匿名で言っている奴らのことは聞く価値もないな」と一蹴するのは結局のところ、立場でしか物が言えない自分と言うのを意識しちゃっているだけに思えてなりません。