俺JASRACの回し者

できるだけ公正というか冷静と言うか、とにかく落ち着いた意見を書こうとしているつもりなんだけど自分がJASRACの回し者に思えてきてしまうのは何故なのだろうか。ああ。
今回の裁判の件は、記事を見た瞬間「これはひどい」と反射しようとしてその勢いでエントリを書いたりしかけたというか実際途中まで書いたんだけれども、さすがに日本の司法がそこまで腐っているのは信じたくなかったので判決文を確認したら案の定と言うわけです。
問題にすべきは、事実認定の部分で、判決に書かれている通りの事実があったのであれば、「今後も違反をする可能性がある」と言う裁判官の裁定は間違っていないと思うのです。今後しないという約束のもとで仮処分を取り消してもらっていたわけで。
そのあとのエントリで、金額の妥当性について触れました。思うに金額の設定にはある目的が考えられます。それは「自分のコントロールできないところでは音楽を演奏させない。するなら割高でも使用料を払わせる」というもの。これについてはその意図が「払えない奴には音楽を演奏する権利はないね」と言うことであれば、音楽を広め、文化を高め、結果として著作者に利益をもたらすという本来の役割を拒否しているわけですから、非常に問題だと思います。もちろん、建前上は「著作権者に正しく利益を分配するのに必要な」金額だと主張するのは言うまでもないでしょう。それが真実なのかどうかを明らかにしてくれさえすればあまり問題にはならないはずです。
お店のほうから見ると、そもそも例えばライブハウスのような音楽の演奏を主目的としつつ、それだと商売にならないから料理とかお酒を頼んでね、というお店にしても売上が必ずしもJASRACの設定した使用料に見合ってないことがままあるでしょうし、「使うんなら金払え。払えないなら使うな」と言うことは正しいにしても、そういわれると「それなら閉店します」しか選択肢がない場合、また一つ文化の灯が、そして著作権者に入るお金の出所がなくなるということになってしまうと言うことになります。とすると、今回の判決はJASRACの設定した条件を適用可能であるかどうかについては争点であるため検証されましたが、(争点でないので当然の事ながら)金額の妥当性については触れられることがなかったので、JASRACと争った実例としては(ピアノ撤去と言うなんともいえない結果以外)何も得るところのない無駄な裁判だったと言えると思います。
正直言って、誰かがウハウハしている疑惑のある現状で、手間の問題で使用料を条件によって一律にしていること、また売上に占める楽曲の効果の割合が定かではないのにこれも条件が一律なことは容認しがたいものがあります。ちょっと前からCDでBGMを流すのにもお金を取れることになりましたが「あの曲が流れているからあの店に行こう」なんてごく一部の業種でしかありえないと思うし、その一事をとってもバランスに欠けているとしか思えないのです。
音楽が単なる商品であれば、需要と供給のバランスで値段が決まってきます。そうでないからこそ相場に拠らない料金の取立てが認められるのだと思いますが、その目的はあくまで文化の振興の為であるべきです。とすると、フェアユースを含め、状況に応じた細かい対応が求められるわけです。その余裕がないのならば、「ない」と言うことを大上段に掲げるべきです。著作物を委ねる人にとっても、それを利用する人にとっても、管理団体が何をどこまでどういうつもりでやっているかということがきちんと示されていると言うことは大事なことだと思いますよ。
反対派のお店の人も払う払わない・認める認めないの話ではなくて、使用料の基準を費用のどこに計上すべきか、その種類による使用料の妥当性はどうか、などといった点で事例を積み上げ、実データを元に交渉できるようにできればよいのですが。実際やっているのかな?
今まで報道されてきたJASRACの一方的な押し付けを変えていく力は、きっと生まれ得ると思います。しかし、音楽を使用して何がしかを得ている以上、全く無償でと言うのはありえない話だと思います。もし、そこを求めるのであれば、その文句を言う先はJASRACではなく、著作権法なのです。JASRACと裁判をしているのか、それともJASRACを通して著作権法に文句を行っているのか。後者であれば、裁判官は現在の法を証拠にしたがって適用するのみです。裁判官個々人の解釈に期待するのは戦略として誤っているので別のやり方を考えた方がいいんじゃないかなあ。