原則論に拘泥する人は本当に原則論のみを正しいと思っているか

そんなわけないですよね。ケースバイケースという言葉を全く排除してしまうことはそうはありません。理念と運用は別だ、とおいてから理念について語り、また運用をできるだけその理念に近づけるというのが現実です。だから、原則論というのは大抵の場合、(比喩的な意味の)哲学という言葉に置き換えることができます。
ところが原則論を相手にしたとき、ついついその部分を忘れて重箱のすみ的な反論を行い、議論を台無しにしてしまうということがあります。そんなことは原則を唱える人だってわかっているのです。だからといってその運用のところはある意味妥協でありますから、原則の中に含有させることはできません。原則論にそういった反論を試みる場合、「運用できないから間違っている」と言っているのとあまり変わりがありません。運用は別だってわかっているのに。
もちろん、原則に対する正当な反論はあってしかるべきです。変化する状況に応じて運用だけではなく原則だって変わる余地があるし、その原則が例えば法律であれば、法改正により根本から変わってくる事だってありえます。その原則が拠って立つところが間違っていることを納得させることができる反論もありえますし。どこに対して反論するかを間違えると本質的な議論にならないかもしれない、逆に単に議論に勝ちたいだけならそういったところに突っ込みをいれて判定勝ちを狙うという手もなくはないです(やったら相手にしてもらえなくなるかもしれませんが)。
といっても、理念と運用が一致しちゃっている主義の人も中にはいます。そういう人であるかどうかはなかなか判別が難しい。特にネット上ではそうです。逆にいうと、政治家のような人々はその辺の判断をするだけの材料がある程度は揃っていたりするので、原則を批判する前に少し考えてみるというのはありかもしれませんね。