社会に要求ということ

先日のエントリ、「公私の境目が崩壊していないかな? - novtan別館」は自分の中でも消化不良なんですが、案の定はてブでも突っ込まれ、id:ululunさんからも言及いただいたのでもう少し書いてみます。大体タイトルがミスリードを招くというかあってないですよね。前半の話と後半の話もあまりくっついてはいません。

社会はみんなの為に存在しているけれど、みんなというのは結局一人一人の集団でもあるわけで。
たった一人の理不尽さを受け入れた結果としてコミュニティが瓦解するのは流石にヤバいだろうけれど、一人の要求であるというだけでコンセンサスが得られないと撥ね付けるべき性質のものでもないだろうとも思う。大切なのは「話し合いのテーブルに当事者同士が付く」事ではないのだろうか。

http://d.hatena.ne.jp/ululun/20070313/1173749129

僕の言いたいのはこのことを否定することではないのです。社会に対して何かを訴えるときに、それが当然の要求であるか、自分のために改善すべきという要求なのか、社会のために改善すべきという要求なのか。そこで自分と社会とのボーダーラインが甘くなり、社会のためであるかということを標榜しつつもその実、自分の利益や憂さ晴らしになってしまうようなことはあまり望ましくないわけです。
といってもそのボーダーは非常に見極めづらいし、僕自身書きながらもやもやしていることは確かです。医療の例でいえば、最善を尽くしたのか明らかな医療ミスなのかは素人目には判断できない。じゃあそこで訴えるべきは、助からなかった原因を改善すること(例えば病院が少なすぎて着いたときにはほぼ手遅れだった現状をなんとかする)を社会に要求することなのか、それとも、医者の責任として追求することなのか。後者において、自分は社会に対して正義を要求しているつもりかもしれませんが、実際にはそれで訴えられるなら馬鹿馬鹿しくて医者なんか辞めるという人を生むだけかもしれません。もしかしたら「仇を取る」という目的は達せられるかもしれませんが果たしてどうなのか。もちろん、全部がこんな話だとも思っていません。非常に難しい話だとは思います。
ululunさんの言うところの話し合いのテーブルにつくためには我々がみんな「市民としてあるべき」私人以外の社会に対する立場を意識しないとスタートラインに立てないとも思うのです。そういう意味でやっぱり今の世の中そのあたりのボーダーラインが見えにくくなっているんじゃないでしょうか。給食費の問題にしてもそうなってしまっている根本原因を調査し、改善していかなければいけないのは確かです。でも「仕方がないでしょ」といってよしとしていいかというのは別の問題じゃないかなあ。
うーん、まだいまいち自分の考えが整理できていないですね…