著作権の消尽っていう単純な話ではない

森博嗣氏の最近の発言はミステリ作家の著作権意識、くらいの問題に捉えられているような気がするけれども、もう少し重要な問題を提起しているようにも思える。

よく、韓国や中国に対して、著作権の考えが浸透していない、と非難することがあるけれど、日本も相当にこの意識は低い。つい最近まで、パソコンのソフトなんかコピィし放題だったではないか。職場でソフトをコピィするようなことがあれば、解雇あるいは懲戒免職くらいの措置がいずれ一般的になるだろう。
 図書館や古本屋については、新刊の場合には発行後1年間ほどは閲覧や販売ができない、というルールに、近い将来は向かうのではないか。傍から見ていると、そんなところが、とりあえずの落としどころに思われる。

http://blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2007/05/post_1142.php

この発想を、ナンセンスとして切って捨てるのは簡単だけれども、果たして本当にナンセンスなのか。権利の問題は、近年拡大の一途を辿り、果たして人に、そして社会にそんな権利があるのかと疑問を抱かざるを得ないレベルにまで達しつつあるのではないかと思っている。
一方で自己責任といい、他方で権利とか義務とか言う。法律は原則であり、現場では運用が基本になるはずだけれども、厳密な適用を求めてみたりする。裁判でもないのに。例えば、自転車は車道を走れということ一つとっても、実態として車道と歩道どちらが相応しいか、実現するためにはどのような整備が必要なのか、そういったことを議論することもなく、「(昔制定された、実態に合っているかわからない)法律」をたてに厳罰化を求めるものと、自分が知っていることのみが「実態」であるとしてむやみに改善を求めるもの、どちらも社会正義を求めていると言ってもそれほどおかしくはないだろう。社会正義とは何か、と言う議論はそこにはなく、ただ、法律と権利と義務という言葉が、その概念だけが肥大化して必要に応じて拡大解釈し、あるいは狭義の定義を尊重する。
そんな発想の中から、森博嗣氏の発言を捉えると、それは大いなる現実への皮肉なのではないかと感じてしまう。
昔は、おおらかだった、のだろうか。権利意識が低かったのだろうか。そうではあるまい。単に、社会にそれだけの余裕がなかったと言うだけではないか。つまり、金にならなかった、あるいは求めても実現しなかった、のだ。飲酒運転の厳罰化をしている暇があれば、他の犯罪を捜査しなければならなかったり、タバコの害を検証するまでもなく人は早死にし、車道には危険なほど車は居ず、著作権を厳密に適用したら、町から音楽が消えたりしたのだ。これは想像に過ぎないけれど。


豊かになればなるほど守るべきものが増えるのは当然のことだ。それは社会という大きな形態にとっても適用される原則のようなもの。でも、守ろうとしなければ守れないのは何故なんだろうか。それはきっと、社会の豊かさと同じ速度では人の心が豊かにはならないからなのだろう。あるいは、豊かになることは、ある犠牲のもとに成り立っていて、そこからの復讐を避ける必要があるからなのかもしれない。


追記:この森氏のエントリにまつわる反応をざっと見ると、やっぱり「釣られている」感がある。彼は作家が本業ではないという意識で物書きをしているふしがあるし、だから自分で言っている通り、最大の利益を得たいから文句を言っている、というのでもなさそうだ。そう思って、「そうなっちゃうんじゃないの?みんなが普段から他の事で社会に要求していることと照らし合わせると。」と言っているんじゃないかと受け取り、そしてこのエントリを書いてみたわけだ。
僕は氏の書くものは面白いものもあるし、つまらないものもあるし、そこそこ楽しませてもらっているとは思っているけれども、心酔しているわけでもない。だけれども、この発言に対して「ガッカリした」ってコメントしている人は、氏に一貫している態度をあまり見ないで批判しているように思えてならないな。氏のことをまるで知らない人とか、小説だけに触れている人がそういうのはわかるけれど。
このへんの話⇒http://d.hatena.ne.jp/banraidou/20070512/1178981031