膨れ上がった団塊を食わせるために搾取されている実感

内田樹先生の大人気エントリ。言及してみる。

だが、社会活動としては消費しか経験がなく、「努力」ということについては受験と就活しか経験がない若い人にはこの理路がうまく理解できない。
どうして自分の努力の成果を他人と分かち合わなくてはいけないのか?
だって、それオレのもんでしょ?
違うのだよ。

若者はなぜうまく働けないのか? - 内田樹の研究室

違うんだ。だって、それオレのもんでしょ?違うの?
言わんとしているところはもちろんわかるし、そういう感覚で働きたくないんだけどね。

若い人たちは「やりがい」ということをよく口にする。
「やりがいのある仕事」を求めて、たびたび転職したりする。
この場合の「やりがい」ということばを年長者は「使命感」とか「社会貢献」ということと誤解しがちだが、当人たちはたいていの場合「受験勉強と同じ」という意味で使っている。
つまり、自分の努力の成果が、まちがいなく自分宛に、適切な評価を受けてもどってくるような仕事のことである。

若者はなぜうまく働けないのか? - 内田樹の研究室

そうなんだ。使命を果たした実感とか社会に貢献した実感とかって「自分宛に、適切な評価を受けてもどってくる」ものじゃないんだ。そりゃあやる気も出ないわ。

違う。僕はそこに属していないから本当は確信めいたことは言えないけれど、高度成長期からバブルにかけての労働者の実感は、成長期待に立脚した、やればやっただけなんとかなるという実感のはずだ。そして、今僕らが感じているのは、働けば働くほど、上に搾り取られ、自分が上になったときは、下からは搾り取れない未来の予感。どんなに「社会貢献」しても、株価として、既得権益としての株をもっていたり、創業者として君臨しているものにばかり成果が還元される世界。そんな世界で自分への直接利益を求めないでどうやって未来に生きていくことが出来ると言うのか。
成果を評価することを求めたから仕事がモジュール化して過度の競争社会になったのか。違うだろ。経済成長が一段落して、賃金が上がって、当然賃金の安い国に単純労働がシフトすることを予想して高付加価値のある仕事を創出しなければならなかった年寄り供の大半ががむしゃらに働くしか能の無い、ビジョンの無い連中だったから、いざことが起こってから競争しなければならなくなったのが原因だ*1。国の競争力が十分であれば、多少の働かない人間が存在してもやっていける。能力のある人を低賃金でこき使ってなお国際競争力が足りないという現状を招いたのは誰だ。我々か?
もう一度考えてみて欲しい。何故、若者がうまく働ける職場を作れなかったのか。成功体験を抱えて満足してしまったとき、その体験は失敗を生み出す肥料にしかならない。「俺たちは出来たのに」という傲慢。違う。出来たのではなく「社会にさせてもらった」のだ。結果として成功した。それは、能力ではなく時代の問題。何故、バブル崩壊が立て直せなかったのか。政府のせいか?それとも、自分たちの無能力のせいか?
飲み屋のツケを後輩に払わせるような人々のために我々が働かない唯一の手段は、競争相手がたとえ同じように不幸な同世代であっても、自らの成果の報酬を最大限もぎ取るしかない。社会は団塊の世代とともに死ぬ。その前に、生き延びるだけの糧を手にしていなければならない。そんな暗い予感を背負わせた世代の言葉は響かない。行動で示して欲しい。さし当たっては、介護不要、安楽死合法、あたりから入るのはどうか。

*1:アジ演説なので仔細はつっこまないように願います