どこまでが東京か

僕は母親の実家生まれだけど、東京でずっと育ったから、まあ東京生まれの東京育ちですね。しかし、練馬。練馬は第三学区(中野杉並練馬)の中でもネタ的に下に見られていて。曰く、埼玉に飛び地があるじゃんと。確かにあるんです、飛び地。アレ一体なんなんでしょうね。

母が東京生まれで、父は養子だったので私は生まれる直前まで東京にいたんですよ、母のお腹の中で。それが事情があって、江戸川を渡ってしまった。私を産んでから江戸川を渡ってほしかったですよ。
〜中略〜
東京の人は意外に質素で素朴だと思う。世田谷の商店会のおじさんとか、田舎のおじさんとメンタリティは変わりなく感じた。今は知らないけれど。
他人に無関心であるとか、流行りモノに敏感であるとか、そういうのは移り住んだ人が持ち込んだ感覚だと思う。他人に無関心なのではなくプライバシーに触れないのあって、流行りモノはごく普通にそこらへんにあるものを使っているに過ぎないのだ。
そんなのがすごく魅力的で、母の故郷の東京の路地裏で生まれ育ちたかったと思う。

http://d.hatena.ne.jp/aozora21/20070829/1188351535

僕には、どこまでが東京か、と言うことがあまり感覚としてよくわからない。江戸川越えたくらいだったら東京じゃない、とか。ディズニーランドは東京じゃないのか。とか。奥多摩は東京なのか。山手線に20分圏内であれば埼玉だろうが千葉だろうが神奈川だろうが(こっちは横浜にプライドがあったりして複雑ですが)「東京のほう」、なんじゃないかと思ったりします。僕にとっては町といえば池袋なんだけど、そういう意味では保谷やひばりが丘の北の方に住んでたり、朝霞や志木に住んでたりする人と変わりがあるのかどうか。
もし、東京が他と違うとしたら、「狭い」という点かも知れない。密度が高いと言うか。密度が高いゆえに、広く関係するのが難しい。同じ駅を使う町であっても、普段使わない道を通るだけでも感じるアウェイ感。常に見知らぬ他人に見られると言う感覚、それがあるがゆえに、何事にも敏感であるのかも知れない。見られると言うのは知られると言うのと全然違って、田舎のそれは知られるほうだと思うし、活動範囲のほぼ全域に知られることができる。知られると遠慮とか緊張は少なくなる。あるいは、別の身構え方をするのだと思う。そうは言ってもそこまでの田舎は首都圏にはなかなかないと思うけれど、あるいは、井戸端会議で伝わる範囲、と言い換えてもいいのかもしれない。
町に出るときの感覚はその際たるものかも知れないです。が、町に出るときだけその感覚を働かせることと、常にその感覚を働かせることの違いはある。そして、ずっと(戦前から)住んでいる人にはその感覚はもしかしたらないかもしれない。杉並とか、練馬とか、十分田舎ですから、当時は。様々なところから人が写り住んで作った町だからこそ、そういった緊張感に満ちているのかも知れないし、それが度を越えなければ心地よいのかも知れないですね。