ヒューリスティクスの適用と社会

このエントリを読んで、ある程度納得する部分はありつつも、差別や偏見をヒューリスティクスな手法を採用することと結び付けて考えることに抵抗があって、ブクマでも「差別のことを合理性と呼ばない」のはなぜかと言うことを自分に問いただしてみるも、イマイチ回答が思い浮かばない。そんなときに、以下のエントリを読んだ。
ヒューリスティクスと差別 - raurublock on Hatena
それで大体わかったんだけど、先のエントリで示されるヒューリスティクスによる合理性は、あくまで当事者の利益においてのみの合理性であって、あるいはそれは社会全体にも適用されるかも知れないけれど、そのことは、一部のもの(あるいは人)を明確に切り捨てると言う意思の元なされることであって、そのことは、正に差別そのものなんじゃないかと思いました。だって、差別ってのは社会にコストをかけないために採用された手法であり、それはコストをかける余裕がなかったことが背景にあるから、現代では徐々に採用されなくなっていく行為であるはずだから。
悲しいかな、利益至上主義の世の中において、全面的にヒューリスティクスを採用しない生き方をすることは難しい。採用するものと採用しないもので戦えば確率論的には採用するものが常に勝つことになるだろうし。だからこそ、声高に叫ばなければならない。差別はいけないと。少なくとも人を判断するのに(いわれ無き)*1偏見や差別は必要ない。

上の商売人の例だと、商売の業績は上がるし、それによって社会にも貢献するのでしょう。しかし、身なりの悪い人に迷惑をかけたという加害者的立場がそれで帳消しになるかと言うと、そんなこたあ無い。

ヒューリスティクスと差別 - raurublock on Hatena

こういう視点は常に持っていたいと思う。だからきっと僕は良い経営者にはなれない*2のだろうけれども。

*1:いわれがあるのは偏見でも差別でもないとは思うけど

*2:別に今経営者って訳でもないけど