理屈と屁理屈

一見筋が通っているようでも、どうにも無理がある理屈ってのをそのまま筋の部分で押し続けると議論は成立しません。論者として重要なことは、自分の論にしろ他人の論にしろ、(そこにより全体が破綻するようなものでない限り)枝葉末節を論じることよりも、全体の整合性が取れていることではないかと僕は思っています。常に一歩も引かない、相手の粗が自分の利になるような論戦をしているわけでないのであれば尚更。
いわゆる屁理屈と言われるものは

  1. 無理筋(単品で見ても論理的整合性があやしい。俺は正しい的)
  2. 前提の誤り・無視(泥棒に人権はない、等)
  3. 文脈整合性無視

などに分類されると思いますが、特に前提の誤りについては、間違った前提と言う認識自体が論者毎に統一されていなかったりするので、相手にとっては屁理屈でも自分にとっては前提になっているものもあります。そこで揉める場合、それが議論になることが正しい(つまり、前提そのものが議論の焦点)であることもありますが、大抵の場合、その持ち出している前提が、文脈に対して不整合、すなわち上記2と3の合わせ技であって、それだけに単品で見るとおかしくないっていう思考の迷路に入り込みがちなようです。