芸術は共感のショートカット

懇切丁寧に、言葉を尽くして説明することよりも、一編の詩、一枚の絵、一曲の音楽などが見せてくれる風景により思いを伝える、と言うことのほうが容易かも知れない。芸術が何かしらの感情を喚起するものであるならば、その喚起された感情はすなわち共感となりうる。芸術そのものへの共感、あるいはそのことにより伝えたかった思いへの共感。
ケータイ小説は僕にとって共感のツールにはなり得ないけれども、そうでない人はいるだろう。あるいは僕にとってのSFが100年前の人と思いを同じくするためのツールとして果たして有効であったか。全く無いというわけではないだろうけれども、限定的であることは間違いない。喚起される感情が普遍的であればあるほどそこで伝わる思いも表面的になるような気がして、だからこそ、単なるエンターテイメントではない、深い、深い、何かが生まれるのではないだろうかと思う。
視覚、聴覚、触覚。言葉による解体は必ずしも不可能ではないし、それはそれで一つの批評と言う芸術の一形態であり、また言葉による伝達と言う、普遍的手段を用いながらも深い表現を行うこともできる。それを突き詰めていった側に小説がいたりもするし、反対側に漂う表現の雲たちがケータイ小説なのかも知れない。
コミュニケーションのツールとして全く不完全である、言葉というものを補うために、芸術が生まれたのであろうか。