世間体の抑止力と画一化

例えば、消防署の対応がまずかったから逃げ遅れたんだ、なんて言い草は、それが本当に特別怠慢な行為をしていた結果としてなされた明白な証拠がなければ非難される。(便利な言葉ではあるが)仕方が無いことに対して、いやそんなことは無かった、と言い張ることは、「してもらった」努力に対して、仕事だからと言って、自分にとっての最善の結果にならなかったことが不満だと言う話と「見做される」。通常、そんなことしたら肩身が狭くて生きていけない。白い目で見る周りは、言った人が自己利益を追求しているからそうしているわけでは(一部そういう気持ちはあるとしても)、ない。消防をやってくれる人がいなくなると困るからだ。
と、まあ、非常に単純化して語っているので社会学的に見て妥当な議論かはわからないけれど、世間体なんてものが弱体化していることが様々な自分勝手と見做される行為(モンスターペアレント然り)を生み出している背景のひとつではあろうし、ワーキングプアなんてのも昔から実はあったと思うけれど、救いの手を差し伸べてくれる下宿とか、そういう近所の人々的な世間が弱体化したのも目立ち始めた一因なんじゃないかと思ったりもする。
ところが、そんな世間体や世間話をするお付き合いが減ってきた変わりに、ウェブでの世間話が出来上がってきた。
こういう空気読めない訴訟をする人が糾弾される場は、その人が住んでいる世間から、ウェブ上へシフトする。全世界共通世間体が既に誕生しつつあるわけだ。これは怖い。何かをやらかしてしまっても引っ越せば済む世間だったのが、どこに言っても同じ世間。逃げ場なし。しかし、その世間の広がりを想像できないで、ついぽろっと漏らしてしまったり、やってしまったりする。それが世間の基準に照られて逸脱していると、つまはじき。
2ちゃんみたいなネオ共同体の登場は、それ自体が一つの世間と言っても良いのかも知れないけれど、世間の論調は常に参加者の多数派によって決められるわけだから、そのような一つの世間で留まっているうちはいいけれど、共通化が進み、引き返せないところまで来ると、画一化した全世界共通世間体の出来上がり。
かくして、ウェブは一つの世間として存在を確乎たるものにし、実名が当たり前になり、必要以上のバカなことをすることへの抑止力となる。当然、副作用として、画一的な価値観による抑圧が発生し、つまはじきにされたものたちが集う地下組織のレジスタンス活動が始まる…というのはSFの読みすぎか。とにかく、世知辛い世の中と言う言葉が復活するような。
これはこれで、ありだと思う。ただ、画一化された価値観と言うのは多分、常に保守的で、危機に弱くて、発展性に乏しい。そういう点で、ウェブの統一された世間化と言うのは怖い気もする。