理解できることが正しいこと、という勘違いというか脳みそサボりすぎ

人力検索みてて思ったんだけど、理解できないからわかりやすく教えてください、みたいなのって、本当に正しい説明じゃなくて、それだったら簡単に理解できるっていう説明で納得しちゃう傾向があるね。元々思考することをサボって聞いているわけだから、答えに対しても思考をサボるわけだ。
で、全然目的を達していないことに気付かない。これは理性の敗北だな。
人力検索と言う仕組みは素晴らしいと思うし、ウェブ時代ならではのものだと思うけれども、こうやって、サボって思考しないために使う人ってのは全く役立てていない。ウェブがある種の格差を縮めた、といわれることがあるけれど、実は格差なんて全然縮まっていなくて、あるべき人があるべきようになるための別の手段が提供されただけなんじゃないかな。
つまり、人のポテンシャルというか、可能性と言うか、キャパシティーと言うか、そういうものがたまたまウェブであったアーリーアダプターな人が自身とそれまでの世の中の格差を埋め、ウェブに対してのポテンシャルを持たない人は、ただのツールかそれ以下の使い方しかしない。ただ、ウェブが社会的に大きなものになって来ているから、そこでウェブ格差社会的なものも出来上がってくるわけだ。
電脳っていうけど、コンピュータが脳の代替になるのは今のところ記憶と固着したロジック(これもある種記憶だ)だけだ。それを補うための人力検索だったりソーシャルメディアだったりするけど、利用する側がそこに思考を委ねすぎると、チューリングテスト以下の判定能力しか持たない人間の出来上がり、となっちゃうかも知れないね。
正しくても間違っても、ちゃんと思考し、理解する努力をしよう。思考能力は鍛えることが可能だ。個人差による限界はあるけれど、悪徳商法や、偽宗教や、ニセ科学を判別するくらいの、政治の嘘を見抜くくらいの、法律違反の経営者を訴えられるくらいの、思考能力は大抵の人が身に着けられると思う。
気をつけないと、著作権法熟知しないとウェブを使えない時代が来ちゃうかも知れないしね。