自由なウェブ幻想

幻想なのは匿名性と言うよりはウェブが自由であることそのものなのではないか
このブログを書き始めたときからいくつかのウェブの自由についてのエントリを書いています。
やっぱり自由なインターネットは廃止すべき - novtan別館
そろそろインターネットの自由な利用の制限という潮流についてまとめておこう - novtan別館
インターネットの自由とは - novtan別館
それにしても、自由な社会は世知辛い - novtan別館
ウェブは公共空間(断言) - novtan別館
「ウェブの自由」の範囲について - novtan別館
自由な言論とウェブの自由 - novtan別館
わりと最初からウェブの自由については懐疑的なんです。それはなぜか。僕はもはや古参ネットワーカーな方だと思うのだけど、いよいよインターネットの世界も変貌してきたかな、と思ってきたから。それは、CloseだったウェブがOpenになってきたということです。え、ウェブって最初からオープンではないの?と思われるかもしれませんが、かつてのウェブ利用者ってのはある程度の素養と、ある程度つぎ込むお金とが必要で、情報は繋がらず、少ない手がかりを自分で繋ぎ合わせていく敷居の高いシステムだったわけです。そういう意味では、全世界の人にオープンされてたとはいえない、という見方もできるでしょう。んで、PCの値段が安くなったこともあり、普及状態にある今、ウェブの社会化現象が進んでいる。そして、全世界が繋がっちゃっていることが限りないメリットと同時にデメリットももたらしている。もはや秘密の箱ではなく社会インフラになってしまった以上、モラルとか、世間体とかが含有される世界になってきているのですよね。
折角、匿名で、普段話せない人を「世界中の人と」話すことが出来るようになったのに。いや、初めは多分同好の士としか繋がらなかったはずなんですけどね。検索エンジンの高性能化や繋がりを作るシステムの発展によって、本当に「全世界へ発信」する状態になっているのがここ最近。もはや、クローズドなシステム以外では好きなことを言える自由は無くなりつつあります。これは多分手段を奪われたのではなく、たまたまそういう要素を使えてただけなのが、本来の姿に戻ってきたんだよっていうことに過ぎないのかもしれません。つまり、空き家に住んでたら持ち主が戻ってきたみたいな。逆に言うと、ウェブの公共性が次第に取り戻されてきた。
結構みんな「自由に発言する権利」をウェブに求めようとするけれど、それって最初から本当に持っていたものなのかな?
例えば、政治心情とか趣味とかによって仕事に不利益が出たりするのは今の社会の方が間違っているわけで、本来は匿名性なんて必要とするものじゃありませんよね。でも、社会がそう変わったとしても、なんとなく後ろめたかったり、取り扱いとしては不利にならないけれど、内心で軽蔑されるようなことであればそうそう言い難いし、逆に気に入られても困っちゃったりするし、恋愛話なんて本人にばれたくないだろうし、社会的評価というよりは、人間関係の側面で、見つかっちゃうと面倒な話があると思うのです。そういうことを語ることはもちろん反社会的なことではないし、その程度の自由は常に持っていると思う。雑誌に匿名希望で恋愛相談するのと何が違うのか、というと違いません。つまり、現状社会的に認知されている行為をウェブに置き換えただけ。
そういう点があるから、僕は匿名であることを擁護するのです。「ウェブだから」より自由である、ということは、手段に適用されるべき言葉であり、内容ではないのではないか、と思っています。

やっぱり、実名で語る人と、そうでない人は、その心意気に大きな違いがあるよね。実名だと、失うモノが云々とか言ってる時点で、損得勘定してる小者でしかないし、逆に実名で語る人は、全てを失っても、コレだけは言いたいという、堂々とした態度があるわけで、その隔たりはデカイ。

やっぱり匿名は駄目かも - カナかな団首領の自転車置き場ダイアリー

そのへん、立場によるからなんともいえません。これが仕事とそうでない人では覚悟が違うのは当たり前で。だけど、先の個人の思想信条の問題と、待遇のされ方がきちんと立て分けられる社会であれば、こういうケースでの匿名を擁護する必要は無いのではないかと思います。で、先にあげた理由の匿名と言うのは別の話としてあってよいのではないか、と。
先のこれなんかもそうだけど、しかるべき立場でしかるべきコンテンツを発信する、と言うのは必要。実名にこだわると、実名でやるべき部分と匿名でやりたい部分の人格を分けるしかなくなって、そうすると、「こっちではこんなことを考えているあの人は、あっちではあんなことを考えている」的な面白さってのも失われてしまうし、なかなか上手くいかないですね。