実名の横暴「も」何とかしないとウェブに未来は無いかも知れない

よく、でもないか、作家が私小説を書いて周囲の人に訴えられるじゃないですか。その作家を個人的に知っている人にとって、モデルが自分であることが明らかであり、プライバシーの侵害だったり、名誉毀損になるから出版差し止めろ、とか。
今まではそういう事件ってのは普通の人には関係ない、あったとしても新聞の投稿欄とか読者参加型番組みたいなごく限られた部分であるわけで。記録としては残るけれど、情報として辿ることは困難な。
でも、ウェブの時代になって、そうでもなくなっているわけです。実名の人が自分の領分の中で書いたものはあまり問題になりません。専門家が専門のことを書いたような。作家でもそうだけど、エッセイみたいなものを書き出すと危ない。あ、あれもしかしてあの人のことを言っている?みたいなのを平気で物してしまいます。まあでも大抵のことは害が無い。でもたまに罵倒したりもする。さて、どこまで許されるのかな。
こういったものは、望んで自らのことを書いている匿名が実名をばらされる(と言っても非は匿名側にあったりする場合もある)のと比べても、より危険なのではないかと。本人が情報発信する意図が無いことが、他者の実名のせいで推測可能になる。もちろん、伝わる対象はその実名の人に近しい人だけではあるけれども、刹那的な情報ではなく、残り続ける。
そういうこともあるのであえて引用もリンクもしないけれども、某素人記者ニュースサイトで実名の筆者氏にとっては厄介な人なのかもしれないが、ある事件の(実質的)被害者である人のことを引いてその事件の記事を書く。その中で、ケチケチしているとか理解力に乏しいことを匂わせる発言などを連発する。こういった行為がウェブに参加していない人までも切り裂いていく。ご自分は実名だから堂々としているつもりかも知れないけど、こういった形での他者への言及は、匿名の卑怯な中傷とそれほど変わりが無い。いやそりゃ実名晒すとかの行為が絡めば別だよ。その辺は一つ一つの行為をきちんと分けて考えたい。
僕らはまず、脳という情報の塊をもってこの世に立っている。そこから必要な情報を選んで世に出していかなければならないのは実名も匿名も変わりない。トレーサビリティとか、名誉がどうとか、プライドがどうとか、そういうのは、あくまで為されてしまったことに対しての責任の取り方の部分に適用される話であって、何を情報として出していくべきかを考え、そして間違えない、ということは実名匿名を問わず情報を発信していく人に課せられた責任であるわけです。テレビ局だって出版新聞の編集だって世に出す選択をしている。
責任を取れるから、取れないから言っても良い悪い、ではないのです。言うべきと思ったから言い、言うべきでないと思ったら言わない。言ったことで起きた事象に対しての責任は、言ったことが自己の信念に対して誤っていなかったとしても、他者の受け取り方によっては取らざるを得ないものです。まず、そこからだと思いつつも、それを意識させるために実名であるべき、というのは発想としてはありだと思うのですよね。ただ、こういった考え無しの実名が普通に登場するのでは、むしろデメリットのほうが問題になってしまいそう。実名というだけではある種のモラルは守られない(意識できない)ので、明確な規範として実名者を導くものも必要なのではないか、そう思います。
実名というだけで正義ではもちろんありませんが、実名であることである程度の力はもってしまうのですから。