デジタルデータを所有することの意味

どうも、ダビング10の話は燃えません。ダビング10自体は筋の悪い解決方法だよなあとは思うのですよ、エンジニアとしては。回数ってのが妥協を示すものであるのは理解できるのですが。でも、根本的な話として、何が自由で何が自由でないかってのは単なる現状追認では意味がないのも確かなことですので、なんらかの形を作るしかないですよね。やって、失敗してみればよいと思うのだけど。
様々な圧力への反発から、利用者側からするとつい利用者としての権利を強調しがちになるのですが、権利者のもつ権利を侵害しまくろう!なんて思っているわけではありません。いや、利用者側全員が一致団結しているわけではないとは思いますが。むしろ、デジタル時代において、どのように権利者に利益をもたらすかを考えなくてはならないのですから…
さて、デジタルなデータに著作物がシフトしてきたことによる問題は、データ保持の低コスト化、コピーの容易性によるオリジナルの価値の低減にあるといえます。CD-Rが1枚1000円して、失敗も日常茶飯事だった時代にCDのコピーに使うのはギャンブルに近いものがありましたが、今や1万で買ったHDDに500枚分は軽く入るという体たらく。記憶媒体のバイトあたりの単価が安くなる、ということはそこに記録されるデータの単価も安くなる、ということに繋がります。もはや、データという概念において、コンテンツはそのボリューム的な意味を失いつつあります。「我々が欲しいのは、データそのものだ」という言い方をした場合、一山いくらと勘定されてもおかしくなくなっているわけです。
しかし、コンテンツの価値はその内容にあります。内容の価値とデータの価値が一致したことは未だかつてないのだとは思いますが、現在はあまりにもデータの価値が低すぎて、アンバランスになっています。このことが、内容の価値を失わせる方向に動かしている要因でもあります。これを防ぐために新世代の規格としてBDやHD-DVDを出す、つまり、データの価値をかさ上げして内容の価値に近づけよう、という試みがなされましたが、データの単価減少の方が圧倒的であったため、上手くいったとはいいづらいですね。さらに言えば、内容の価値を上げて行っても、肝心の再生装置や受容する人間の感覚器官のほうが先に限界に到達しそうです。
ここでいう価値は、評価とかそういうものでは当然なく、市場価値ということですが、従来コピーをコントロールする(=本来の著作権の目的)ことで価値をコントロールしてきたことが、技術の進化によって追いつかなくなった、というのは事実ではあります。従来のコントロールコストコトロールであり、海賊版が成り立つのはスケールメリットを出すことの出来る手段(これは最終的に消費されるところまでのコストも含まれるから結構難しい)を得るか、または希少価値によりコストが度外視できる場合に限られたんじゃないかと思います。ところが、デジタルデータのコストの概念は、記憶媒体のコストとほぼイコールになってしまいました。そして、その記録媒体が汎用であるためのコスト削減効果はものすごい、と。
ここで我々は一つ考え直して見なければならなくなりました。まず、従来のコピーコントロールが実態としてそうだったのか、意図的にそうであったのか。もちろん、後者です。コピーガードやCCCDの発想というのは、従来十分と思われたコピーコストと劣化によるコントロールが不十分になったという実態を反映したもので、逆に言うと従来のコントロールが手段として十分コントロール足りえるという認識の下で行われてきたといえます。著作権法の考え方からいっても妥当です。それでは、デジタルデータのコピーはどうコントロールすべきなのか。
ここで問題になるのが、私的複製。私的複製は著作権法上も認められた利用者の権利では有ります。しかし、デジタルデータと私的複製の概念はとても親和力がありそうで、実は相反するものなのではないか、とふと思ったのです。
再三述べたように、デジタルデータにおいて、既にデータそのものの(量的)価値は激減しています。逆に言うと、持っている我々の側も、「データを持つ」ことそのものには「任意の状況で再生できる」こと以外の意味はほぼありません。データの所有とは、データをいつでもどこでも再生できる権利であるといい変えることができます。であるならば、その権利と私的複製の自由が結びついているのは現状の技術的な実装の問題であり、今後もそうである必然性というのはあまりないのかもしれません。
結局、何が言いたいかというと、デジタルデータの時代において、「複製という概念自体が意味なし」なのではないか、ということです。つまり、

  • パッケージというメディアが継続される場合、所有者に対する利用形態の制限や、バックアップとしての複製の制限はかけるべきではない
  • 配信というメディアに取って代わられる場合、いつでもどこでも配信を受ける権利や、バックアップとしての複製の制限はかけるべきではない

というところに帰結します。ええ、強引ですとも。単純にいうと、「デジタルデータのコピーはバックアップでしかない」という話。
コンテンツの所有とデータの所有の概念を切り離して考えることが必要なのではないか、ということは最近強く思いますし、そういう観点から見てダビング10という考え方そのものが古い所有に縛られているようにも思えます。結びつくべきは、コンテンツとメディアではなく、コンテンツと人なのではないでしょうか。