実名化によるインターネットの健全化とは

今のわりと不健全(その定義はひとまずおいておく)なインターネットに慣れ親しんでいる人にとっては、完全実名化で世間を気にしなければならないウェブにどれほどの価値があるんだ、と疑問を抱くのは自然な事です。一方で、ウェブが現実に対して持つ発言権がイマイチなのも、同じ理由であり、つまり、不健全さによって保たれている価値と毀損されている価値があること自体は否定しづらいものではあります。
しかし、実名化をすることはメディアとしてのウェブの発言権を増す結果にはなり得ないと考えています。何故なら、実名化は現実の権力を持ち込むことに他ならず、現実と同じ抑圧を受けたり、現実と同じような、権力を笠に着た物言いを許すことになるからです。今、現実で実名で発言している人の「個人」が重要なのか「肩書き」が重要なのかといったら前者であるケースがほとんどでしょう。
われわれ、特になんの力もない人間はしかし「市民の声」という匿名かつ多数であることのできる形態で何かをすることができるし、民主主義の基本である選挙が無記名であることがそれを象徴しています。ただ、従来市民の声はマスメディアなどのフィルターを通して歪められることが多かったわけです。
ウェブで直接発信できることはあまりに突然やってきた出来事過ぎて、ルールが整っていない面が多々あります。また、ウェブが権力の対立軸として見られすぎていることもあります。しかし、個対個になりえないのであれば、構図としての権力対市民という形を残せるようにした実名化が望まれます。まず実名化、では達成できないだろうことはわれわれが今まで経験してきたことに照らせば明らかでしょう。
つまり、ウェブの実名化とは、新たにできた市民のためのメディアを現実に合わせて矮小するということであり、ウェブの特性やグローバリゼーションを無視したものであるといえます。少なくとも現時点では。

匿名でしかできないこと

ここまでは長い前置き。ことメディアという観点では、ここであげた問題は必ずしも正しくはありません。市民運動を匿名でやるのは代表者というところではあり得ない話です。ウェブでの市民運動が、参加者という匿名の個(匿名というのはあくまで世間に対してであり、運動する人たちの間で匿名である必然性はありません)であるのか、運動の主体であるのかは判断しづらいところでもあります。
ところで匿名というか、不特定多数コミュニケーションでしかできないだろうことは沢山ありますが、ここでは一つだけ挙げることにします。それは「実名でやるには恥ずかしいこと」ですね。そんなことやらなければいい?そうでもありません。恥ずかしいと思う主体が本人であるとは限らないからです。
「〜に相応しくない」という主観で行動を制限されることは世の中では良くあることです。それは必ずしも社会的に正しくないものですが、逆らうと生活に関わることもあります。こういったことをできるメディアが折角登場したのに何故一部の馬鹿のために制限されなくてはならないのか。

すべてはトレードオフ

匿名であれ実名であれ、いい点も悪い点もあります。どちらかに致命的な欠陥があればともかく、現状は程度問題に過ぎません。匿名がなす悪行を庇うつもりはありませんが、実名が悪をなさない保証がない以上、犯罪抑止力があるという一点をもって実名制を導入施与というのは乱暴です*1
とはいえ、実名が担保する何かはあると思うので、欠点を克服する形で実名化ができないかを考えてはいきたいですね。

*1:実名が発言の質を保証するかについては僕は否定的見解をもっているので、理由にはしません