名前とそれに伴う評価の重要性

名誉毀損とか誹謗中傷とか、そういった言動が何故重要であるのか。例えば周りがみんな「あいつはそんな奴じゃない」と思っていても初めて会う人はそう思ってくれないかも。それが真実に基づくものでなければやるせない。
イヤな思いというのは極端な話をすると、本人の度量の問題で済ませることは出来るけれど社会的な評価はそうはいかない。これは相手の度量の問題になるから自分では制御出来ないしね。
冤罪逮捕なんてのもそうなんだけど、世間というのはわりと自分の目に自信がなくて、「みんなの」目に頼ろうとするからね。でも社会なんてそうやって回ってきているから。一部の悪人のために少なからずの善人が犠牲になっている。
名前からある程度自由になる、これは名前と自分が1対1、つまり単一の識別子しか持ちえない社会に対する反抗なのか、あるいは、別の自分が存在することを表明するものなのか、あるいは、本来の名前という社会的識別子から解き放たれたいのか。評価はそれぞれの名前につくけれど、それは自分の中で繋がっているのか。
この辺のバランスは、それぞれが天秤に掛けるものによって違ってくる。本当は違ってはいけないと思う。とはいえ、発言権を得るために努力してきた人と、にわかに発言権を得た人を同列に扱うのもどうかと思うことがある。
まあでもそれは単純に言えばシステムが変わることへの拒否反応だし、折り合いの付け方の一つなんだろう。
システムを現実に近づけようとする試みは、しかし、自爆かもしれないね。現実の評価軸に真実からなる本人の能力とか資質が含まれるとは限らない。権力や立場によって折れることを強要されるかもしれない。ウェブみたいなところだと中身で勝負できなくはない。誹謗中傷が誹謗中傷だと皆が認識できれば問題ない。
まあ、ウェブにも他のメディアにも本人の意思をもって露出していない人を中傷するのは究極のルール違反だとは思うけど、正しく誹謗中傷(なんだかおかしいけど)されるのはむしろ名誉なんじゃないかと思ったりもする。極端な話、実名が現実に危険をもたらさないってのはそういうことなんじゃないかなあ。