舌禍事件と表現力

常識的に考えて、病気にでもならない限り体内の臓器が腐るなんてことはありえないわけで、そういう意味では表現力の貧困さが招いた事件ではある。
けれども、TVの向こうというのがあまりに身近になって、偶像でなくなって、あるいは、同世代の代表的な、あるいは友達感覚な、そういった気持ちで、つまり、放送で全国に流れるということを意識できなくなっている状態で、友だちに話すそのままの、貧困でもニュアンスが伝われば問題ないというコミュニケーションのままで、発言してしまったんではないか、というようにも思える。
世界は日に日に狭まり、その縮小化はコミュニケーションを縮小している。正確には、コミュニケーションの幅を。儀礼というものは無視されるのが普通になっているようにも思える。本当はきちんと相対化された儀礼がないとそれを破るという行為もまた意味がないのに。クラシックがないのにモードが存在しえるはずがないのと同様に。
政治家の発言も大概酷いわけだけれども、それも日常と非日常の境目を失った、ある種の危険な兆候であって、その使い分けができないことを嘲笑している諸外国の政治家は多いのではないだろうか。政治屋であれば、それでもいいのかもしれないけれども。