主張が文脈に依存していないかをもやもや感と共に考えてみる。

難しい。自分が他者に要求する、今そこにある危機メソッドは他者に要求されるとき実感のある切迫感を伴わないから、否定しがち。これを温度差と評価してよいのか。
モヒカン的には状況依存な議論はする価値がなく、全て脇に追いやるべきなのかもしれない。一方で見えている危機をスルーすることを非人間的行為と見做す視線に耐えなければならない。
実は、というか当たり前のことであるけれど、実際に起きていることと、べき論とを同じ文脈の中でごっちゃに語ることは意味がない。いや、あるけれど、事に対しての態度が明らかになるだけで、議論の中身は進行しない。
僕がある脅迫を切迫感のある事実と受け止め、一方である誹謗中傷を大きな問題と捉えないのは見方によっては明らかにダブルスタンダードだけれど、もちろんそれは文脈の中においては一貫している。しかし、他人の文脈に踏み込むのに相応しい主張なのか。
そう思ったとき、自分の言論は限りなく自分勝手であり、恣意的な文脈依存の、価値をあまり持たないものであると感じることがある。逆に言えば、文脈のすり合わせを拒否せず理解に努めることが議論の第一歩なのだろうと思うわけだ。
もちろん、文脈は必ずしも人固有のものではなく、共有しているところでは余計なすり合わせ作業は不要である。その反面、ある種の壁を擁しているように見えてしまう。
もう少し。論理性が欠如しているわけではないのに議論がヘタってのは文脈を提示できてなかったり、既に合意されているその場の文脈を無視して自分の文脈を持ち込んだりすることが原因の一端なのではないのか。いわゆる「わからずや」が自身は微塵も自分の正しさを疑わないのに周りは大抵批判的である、というのはこのように議論のパラダイムが異なっている、という奴だ。
そんな風に思うと、何かを強く主張したり、確信を持って他人を批判するときの自分が何者であるかを後からでもいいから振り返ってみる必要はあるよなあ、と感じる。少なくとも、常に自分は正しいとの確信が、ある視点からでしか成立しないものである場合、自分が正しいとしても、違う意見の他人を非難するのはお門違いであるかもしれない、というくらいは常に意識すべきなのだろう。