バブル崩壊と匿名文化

実に意味不明なコメントに困惑気味な今日この頃ですが、お題をもらったと思い、強引に語ってみましょう。ただし、元エントリとそのコメントとはほとんど関係ありません。
バブル時代というのはある意味で、リアルライフでの匿名真っ盛りだったのでは、と思う。何をやってもうまく行く、そんな時代。人々は、人ではなく、時代を信用していた。一方で自分もone of themとして時代がもたらす恩恵を享受していたわけだ。あっちで遊び、こっちで遊び、出会いは永続せず、一期一会というには心がこもらず。
崩壊して、時代を信じた人は痛い目をみた。なかには再起不能になった人もいただろう。
何をやっても大丈夫だった時代は終わり、生活の安定を奪われることに怯える日々の始まり。「文句があるならやめて良いよ」は死の宣告。業績が悪ければ首は切りやすい。論理と感情は必ずしも一致せず、その不整合に苦しむ人は増えていった。
「さあ立ち上がれ!時代は革命を求めている!」
しかし、守るべきものが増えすぎた。人の命が何よりも大切だという倫理観も革命には向かない。大抵の人々は、全てを失うほどではなかったからそれを守ることに全力を尽くした。
普及し始めたパソコン通信。捌け口としての見知らぬ人とのコミュニケーション。社会を変えることにはほとんど寄与しないけれども、同士たちと語り合い、精神の安寧を得られる場。一方で、自分がこんなことを言っているのがバレたら首だという思い。生活と精神を共に守る手段として…
就職氷河期も終わりを迎える頃、就職活動は完全に様変わりしていた。企業の「学校名では選別しない」という嘘は匿名での情報交換によって白日の下に晒される。面接のやり方や、進捗状況は、自らに不利にならない程度に開示される。
身を守る手段から、ある種の力になった。
しかし、匿名が世の中を変えることは少ない。就職活動の情報にしたって、学生の売り手市場になったからに過ぎない。見てみるが良い。氷河期の世代が匿名でいくら不満をぶちまけても雇用は上向かない。派遣の実体や、名ばかり管理職の問題が世の中を動かしたのは匿名の告発によるものか?違う。自らを守るのは自らの存在を賭けて戦う力だと悟ったものたちの実名力だ。
そう、企業や政府が本当に恐れているのは匿名による告白や運動なんかではない。守るべきものが自分の命や尊厳だけになったものたちによる闘争あるいは復讐だ。適当に飼い慣らし、適当に捌け口を与えていれば満足してくれるならこれほど扱いやすいものはない。
そう、我々は実名で闘争すべきなのだ。世界を変えたいのであれば。守るべきものの方が大切ならば、匿名で喚いていればよい。少しずつ体力を削られ、向かう先は緩やかな破滅への道だとしても…