報道は事実を解釈して伝えるものであるという真実

某江川さんと某きっこの間で一悶着あったらしい。あの光市の本村さんが、某補選で応援したとZakzakな報道されたことについて、江川氏が事実確認すると演説会に何の意図もなく参加したら存在を認知され、予期せぬ利用のされかたをしたということ。それを伝えられた某きっこは某政党の陰謀論的記載をし、江川氏がアテンションアピール中、というところ。
この事例自体に特に意味はない。ネットだろうが、従来のメディアだろうが、井戸端会議だろうが、歴史教科書だろうが、何かを伝達するときは必ず誰かの解釈が入るものだ。あるいは、含みを持たせるものだ。事実の提示のみして自分で解釈してね、とすることであったとしても、その情報が断片に過ぎない以上、その提示に何らかの解釈が混入していることは避けられ得ない。
例えば思考の記載であれば発せられた言葉だけではなく、感情や思考過程までも記録できないと十分ではない。いや、それですら事実を明らかにするには不十分であろう。所詮我々が目にするものの質というのは解釈の精度に過ぎないのだ。
事実の提示には、あきらかに誤っているものと、(精度は様々としても)誤っていない可能性のあるものの二種類しかない。