実名言論の限界

そもそも実名で発言してて所属の看板背負ってないつもりの人がいると言うこと自体が信じられないのですが、散々「実名で発言することが利益になる」ことを強調して、それに対する懸念を一蹴しておいて、いざ実名舌禍事件が起きると匿名のイナゴによる言論抑圧(行政的な制限を科せるわけでも肉体的拘束が出きるわけでもないのでそもそも弾圧という言葉は不適当だと思います)としてしまう向きは自身の言動に対する影響力の無さを喜ぶべきです。みんなが信じなくてよかったね。
そもそも社会的に不適切な言論の制限なんてずっと行われています。それはアメリカ大統領候補も例外ではないし、「政治的に正しい」という言葉が流行ったのも決して一過性の何かではありません。世間という匿名の空気(時には権力という具体的な力)に相対するのが言論で、自由ではなく、思想を守るためにあるのが学問の府やジャーナリズムなのです。その思想の中にそれぞれの基準での言論の自由が含まれているに過ぎません。
所属を明らかにしての発言が常に問題になるのは、言葉の届く範囲が変わっているからです。社内広報とかで世間とズレた発言をしたってそれほど問題にはなりません。たいてい中の問題(それこそ処分も中の問題)であり、また発信先が制限されているから。しかし、ウェブでの発言はそうではない。
もちろん、例えばデモに参加したのを咎められたりという類の思想制限と何が違うのか、と言う問題はあるでしょう。内容によって処分されるか否かは職務に相応しいかの問題でもあります。自分がその職でいることが不適切であることの証明を行ってしまった不明は恥じるべきではあります。そうでないなら所属組織は業務妨害のトリガにのみ注目すべきです。
話を戻すと、ウェブでの発言は世間に対する発信であり、そこに肩書きがあれば世間がみるのは肩書きです。そして、それを利用して価値ある言論をしよう、あるいは暴言の抑止効果を得よう、という発想は間違いではありませんが、実名の強要は所属組織に迷惑をかけることへの回避策を奪います。意図的なものは防げるかもしれませんが、人一倍言動には敏感である政治家ですら失言をするのですから。そして、抗議をする人は実名でもするでしょうし、抗議を受ける側にとって大量の実名は集合としての匿名の世間に他なりません。
相手側に匿名がいようがいまいが、実名言論は所属によって制限されえるものなのですよ。