「テレビで知った」は何故問題にならないのか

硫化水素の自殺方法だってテレビで報道されて始めて作り方をインターネットで調べた、って人が大多数だと思うわけだ。が、

高知県香南市市営住宅で23日に自殺した中学3年の女子生徒(14)は、硫化水素による自殺方法を「テレビで見て知った」と書き残していた。県警香南署によると、生徒の自宅にはパソコンなどの機器はなく、ニュースなどから知識を得たとみられるという。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080426-00000020-maiall-soci

という例もある。
では何故インターネットだけ過剰に規制されようとするのか。
単純に言うと、報道というのは一過性のものだ。すぐ消え去るものだ。自粛しようと申し合わせた瞬間、その先にはいかない。既に報道されたのを見ない限り、あるいは「過去の」新聞や雑誌を漁らない限り、消え去るものなのだ。しかし、インターネットは違う。永遠に「現在の」情報として掲載することができる。
新聞の訂正記事を見るといい。どんなに重大な訂正であっても、その事件そのものを訂正した観点から報道しなおすことはありえない。ただ、間違っていた事実について言及するだけだ。そのことによって話の要旨が全く変わってしまうとしても、「訂正」記事で終わってしまうだろう。つまり、報道というものの大部分は、それを行っている者たちの過剰なプライドとは裏腹に、一過性の、揮発性のある、その場でしか意味のないものでしかないのだ。大衆にとっては。
もちろん、報道における記録性というのはそのことを割り引いても大きな価値があり、プライドを持つに値する仕事ではある。しかし、そのことは報道そのものの持つ世の中に与える影響力とは別個のところにあることが多い。結局のところ、報道が「テレビのせいで」などという言説に与さないのは、その矛盾についても熟知していて、影響力の一過性について認識しているがゆえに、その効果が限定的であり、制御可能であるという認識を持っているからだ。もちろん、常に現在であるインターネットに情報がある、ということを報道することにより、結果として、報道単体ではなしえない「継続的な情報の提示」をしているということが、このような危険な情報にとっての最大の過ちであることの自覚がないから「インターネットのせい」などと報道できる。あるいは、相対的に「過去の」メディアであり続けてしまうことに怖れを感じ、規制させようとしているのかもしれないが。
新聞社のニュースサイトはパーマリンクがなかったり、あっても一定期間で消える(本来的にはパーマリンクとは言えない)ことが多い。過去記事DBを有料提供して、という意図は合ったとしても、彼らは「報道とは何か」というのを熟知しているからこそ、そういった所業に及ぶのかも知れない。