容易になったドタキャンはコミュニケーションの変化がもたらした悪弊かもしれない

少し前までは、予定を直前になってキャンセルすることのダメージは大きかった。家にいるならともかく、仕事や学校の場において、パーソナルな連絡手段というのはほとんどなかった。だから、する方にもされる方にも上手く連絡がいかなかったときのダメージは計り知れない。
一昔前のドラマでは彼氏の残業のせいで待ちぼうけを喰う彼女、というシチュエーションは良くあったけれども、今だったら「携帯持てよ」で終了である。このシチュエーションを成立させるには「携帯を忘れた」「電波が入らない」「連絡するのをすっかり忘れてた」などの描写が必要になってきたりする。いずれにしても、(大抵は)当人のアホさ加減を示すアイコンにしかならない。否応無しに巻き込まれた〜に二人の運命は!なんてのはなかなか難しい。

ドタキャンするとき,人はあらゆる未来を想定する。それで仕事をクビになるようなドタキャンであれば這ってでも行くだろうし,大好きな恋人との約束であればそうそうドタキャンはしないだろう。関係性が薄ければ薄いほど,利害関係が発生しないような関係であればあるほど,困らないし,怒られないのだ。だから,人はドタキャンを選ぶ。

ドタキャンばかりする人々と,何年でも無遅刻無欠勤を続ける人々 - 諏訪耕平の研究メモ

携帯やウェブで人々の距離は近づいた、ように思える。しかし、そのことは逆に関係性を希薄にしている部分がある。お手軽に連絡が取れると言うことは、お手軽に約束し、お手軽にキャンセルすることだ。厳格な父親を必死に回避して取り付けたデートの約束をキャンセルするなんてとんでもないわけだけど、約束することのコストが下がった現在、キャンセルのコストも下がっている。少なくとも、手続きの面では。

ルールがきつくなればなるほど,人々は寛容さを失う。これは間違いないと思う。自分がルールに縛られていれば,他人もルールに縛られて欲しいと思うのが人情だ。現代人は,僕の見る限り相当ルールを守って生きていると思う。そして,寛容さを失っていっている。その様子を,大学に勤めるある友人が,「お互いに首を絞め合っている」と表現していた。言い得て妙だと思う。僕はこういう状況を「体育会系の論理」と呼んでいた。

ドタキャンばかりする人々と,何年でも無遅刻無欠勤を続ける人々 - 諏訪耕平の研究メモ

何故ルールがきつくなるのか。それは、モラルが低下しているからだ、と単純にいうとそうなる。出勤時間のコアタイムを10〜15時に設定したらほとんどみんな10時に来るとすると、9時に用事のあるお客さんが電話を掛けても誰も取れない。もちろん、そういうお客さんがいる前提だけど。「緊急時は携帯で連絡取れるからいいじゃん」という心理が次第にルーズさを助長していく。実際にはそこで問われているのは連絡可能性ではない(休日ならともかく)。仕事に臨む姿勢だ。モラルとかマナーに類することをルールにしてしまうことは愚かなことだと僕も思う。けれども、最低限守れることが守れないと社会は成り立たない。
携帯やウェブは人々の体を近づけた。でも心は遠ざけている。