GIGAZINEの事件報道にウェブの明日を思う

まず、7名の犠牲者の方々には謹んでご冥福をお祈りします。

秋葉原での事件。現実の中で最もウェブに近いとも言える地帯。ウェブへの接点は物理的にはインターネット回線であるけれども、実際の接続を担っているのは人である。現実とウェブとを近づけるのはウェブに接点を持つ人の密度であり、秋葉原こそ日本のウェブの入り口といっても過言ではない(いまどきはそうでもないか…)。

読者からのタレコミ、犯人取り押さえの現場

秋葉原で通り魔、トラックで次々とはねてナイフで斬りつけ、7人が死亡 - GIGAZINE

これを
「真実の裏づけがないものを無責任に掲載する」
と取るのも
「既存メディアにはない速報性」
とするのかは議論の余地があろう。個人的には前者の感想を抱く。
秋葉原が舞台であったことが何か象徴的であったかというと、そうではない。単に繁華街で起きたというくらいの意味でしかない。
ただ、報道のありようというのは変わって行くかも知れない。もはや速報的に現場を記録することは報道カメラの役割ではない。歩く人の大部分がカメラマンの役目を担うことが出来る。Webに掲示することが出来る。そこにないのは「報道としての選別」である。果たして、今見ているものは真実なのだろうか。

ゴールデンスランバー

ゴールデンスランバー

メディアによる捏造と、Webによる濡れ衣の可能性。何を信用すればよいのか。現実とフィクションの狭間にあるウェブの世界は現実との接点が増えるにつれ、変貌した姿を見せていく。ウェブによって現実が捻じ曲げられることへ対する怖れはウェブの個人メディア化への否定的な感情に繋がっていく。ウェブで行われるべきものは制限されていく?そんな未来も十分に考えられる。
一つウェブに見るべきことがあるとすれば、こういった事件において、居合わせた人の数だけ報道ソースになると言うことかも知れない。群集全てが結託することが難しい以上、事件の捏造は難しいかも知れない。しかし、真実の告発が多数に圧殺されることもまた事実だ。
一次ソースとして事件を報じることの責任というのはかなり重い。Webだけのメディアに報道規制が及ばないのは今だけかもしれない。