「やらない」が最適な利益になるデザインをしてはならない

およそ物事についてリスク0を求めていくことは、結果としてそれを「やらない」ことに帰結します。いわゆるリスクマネジメントはリスクのコントロールであり、0にすることではありませんよね。最小化を目指していても、例えば事業においてノーリスクであることはありえず(地公体すら破綻する今日この頃ですし、他国が攻め込んでくる可能性だって否定は出来ません)、また、何もしないことがリスク(日銭が稼げない会社は破綻します)であったりするから、出来るだけリスクが最小になることを考えながらも、コントロールできる範囲のリスクをとる、また、それなりのリスクを見つつ勝負に出る、ということを行っているわけです。
「働いたら負け」的な発想は、長い目で見たリスクコントロールが出来ていない場合がほとんどですが、実は真実である場合もあります。十分に資産があって、例えば結婚して離婚して慰謝料とられたら生活できなくなるな〜みたいな発想も無しとはいえませんし。もちろん、インフレリスクに耐えられない可能性もありますけど。
仕事においても、リスク0を目指す!という旗の下であれはやらないこれはやらないという施策をとることがあったりします。目的がリスク0になっているのが実は本末転倒で、例えば経営の安定化を目的としてリスク0を目指すのであれば、そのことによってかえって経営が不安定になったりして。行き過ぎた情報セキュリティーマネジメントとかね。
予防接種をするかどうか、というのも似たような話です。個々人のリスク、ここでは予防接種を受けたら低確率だけど死ぬかもしれない、というリスクと社会全体のリスク、予防接種を受けさせないと全滅するかも知れない、のどちらが大切か、というのをしかるべき立場の人が判断し場合によっては接種を義務付けて、というのが社会の機能デザインとしてありますよね。
救急でのたらい回しなんかもそうで、救急なんて受け入れたら問題が起きて…ということを避けるために指定を外れる、という選択をすることもありますよね。リスクを0とするためのデザインというのはそれをやらないことが最適解になることが良くあるんじゃないかと思います。それでもそれが必要なのであれば、リスクの要件を緩めないとならないでしょう。
今まで色々なものについて、暗黙的、風習的なもので運用されていました。線を引く試みとしては例えば判例みたいなものがありますが、それは必ずしも絶対ではありません。ところが、近年、そのグレーゾーンの柔軟性を残すのではなく、明示的な線引きをすべしという風に変わってきた部分がありますよね。その際に、社会の機能としてのデザインを失敗すると、「やらないのが最適」となりかねない。実際に線を引くのは政治とか司法です。個々のポリシー上の問題なんかもあると思いますけど、個別の事案の処理ではなく、社会のデザインであるかもしれない、と思ってくれたらなあって思います。