科学と宗教の区別がつかない人はいい加減どうにかしてくれ

何が足りないのかなあ。

  • 科学信奉者の基本「科学は絶対ではない」
  • ニセ科学の基本「科学的に証明されているので絶対効果があります!」

科学が宗教ではありえないのは、その理論が正しいと考えるに足る根拠が観測や実験から明らかにあるとしても、それが絶対ではなく新たな観測や証明方法の登場によって覆ることが十分にあることを知っているし、それを繰り返してきた歴史が今の科学を積み上げてきたことを誇りに思っているからだ。
統計的な弱いエビデンスしか持ち得ない心理学の研究者がその検証方法を「そんなものは科学ではない」といわれながら少しずつ進歩させていっている一方で血液型性格診断にあたかも裏づけがあるような流布のされ方をしているような、そういうもどかしさというのは常に存在するのだけれども。

レベル感。

  1. 科学的に証明されています。絶対に正しい!
  2. 科学的に証明されています。正しいと考える蓋然性は高いです
  3. 証明はされていないけれども現在の科学理論から言うと正しい可能性が高いです
  4. 証明はされていませんが、正しい可能性は少なからずあります
  5. まだ理論の段階です。正しいかどうかは観測を始められるようにならないとわかりません
  6. 科学的ではありません。科学のパラダイムが変わると科学の範囲に入るかもしれませんが、今はトンデモとしか言えません

科学者の中にも派手な物言いをする人はいて、そういう人は1を言っちゃったりするんだけど、もちろん、それは暗黙の了解として「まあ科学が完璧に正しいわけじゃないんだけどね」がついているのでよいのです。ただ、科学者同士ならともかく一般向けにそういうことを言っちゃう人は脇が甘いと非難されても仕方がないようには思います。
で、ニセ科学なんだけど、5とか6を1や2と混同させるような言い方をするという特徴がありますね。1と2は客観的に検証できる理論とデータあってこそのものなんだけれども、5で思考の仕方が科学的だから実験結果もろくに出てないけどきっと正しいんだよみたいなのを2と言ってみたり、6みたいな理論も実験も現在の科学に則っていないのにあくまで科学的な思考を装い、あまつさえ「証明されています!」と言っちゃったりするのが問題なんですよね。往々にして1と6くらい離れたレベル感で飛躍しがちです。
科学的思考の持ち主(科学至上主義といっても大して変わらない)としては、6だってそれが科学だと言い張らなければ(明らかにそうじゃないとわかるようになっていれば)それほど五月蝿く言いません。いや、そうでもない場合もある。科学と謳ってなくても「この理論は正しい」みたいな物言いは相応のバックグラウンドがないと認められない習性がある科学者としてはいちゃもんは付けたくなってしまったりしますね。でも、こういうレベル感の差は認識しているはず。
1の「科学的」の部分を別のものに置き換えたとき、それは宗教になりえます。科学が宗教であるためには絶対的な何かが1であることを必要とするのだけど、そう思っている人は一部の思い込みが激しい人か、レトリック上(ほぼ正しいを100%と言ってしまうような)でしかありえない。そこが科学と宗教の最大の断絶なんだと思うんだけど。
非科学的な話や宗教を科学者がバカにしているかというとそうでもない。信心深い科学者だって沢山います。それとこれとは別、と思っているだけであって。科学の領分で扱えない事項が沢山あることだってわかっているはず。
これは科学ですか?と提出されたものが科学であるかどうかの判定は厳密に行われるんだよね。それだけの話がなぜか科学が科学教だという話になってしまう。そのこと自体がどうもおかしいんだよね。科学的じゃない話を信じたいんだったら科学と違うパラダイムで信じればよいのだけれども。科学が宗教であることに拘っているのは主に科学を真実だと認めたら困ることがある人なんだろうけど、特にニセ科学でなにかをしようとしている人は逆に科学が宗教ということが真実だったら根拠薄弱になって困ると思うんだよね。一体科学を否定しようとしている人は誰なのか。もしかして、現在の科学では証明できないことを科学的と主張したいから現代の科学が依拠している土台を崩そうと工作しているのかなあ。