Webでの「ネタ」殺害予告を認めよ、というのは検閲を認めることに等しい

なんでウェブではない媒体では大丈夫だったのか。

宅さんは、「殺害予告」日記を書いたことについて、こう説明する。

「批判や批評についてではなく、常に上から目線なのに怒っているのですよ。相手とは、共通の友人を介して、話し合いをしています。『殺害予告』は、出版では19年前からやっていることで、それ以来変わらない表現です。

宅八郎、ミクシィで「殺害予告」 批判の誇張なら許されるのか : J-CASTニュース

これはひどい。悪しきジャーナリズムに染まっているように見える。なんで出版では大丈夫なのか、ウェブで逮捕が相次いでいるのはなぜか、ということをもう少し意識して欲しい。
もともと出版では、表現者(著者)⇒編集者⇒出版社(デスク)という出版の過程において、いくつかの保証をしている。たとえば、「殺害予告」であれば、出版する以上、それが本当の殺害に繋がるようなものではない、というような。ネタであるかどうかは(著者に直接確認するのか、それとも信頼関係によって未確認なのかに関わらず)出版社が保証しているのだ。それで実際に事件が起こったら出版社が非難を浴びること間違いないわけだし。それが出版された以上、ネタであることを保証している第三者がいることを意味していると考えてよいだろう。
しかし、ウェブはどうだ?個人が他人の干渉なしに意見を全世界に伝えることが出来る、というのは、第三者の保証がない。それは、文章を掲げたことの責任を誰も取ってくれないことに他ならない。
文章で飯を食っていると目される人、であれば、まだ、ネタであるという第三者的な判断の一つの基準になりそうだけれども、それはあくまで社会的に確立された表現者としての地位あってこそ。出版ではOKだから、という理由で許容されるべきものでは決してない。
何をどこまで保証するかのバランスは、最終的には空間の住み分けで解決すべき(編集を通る代わりに危険なネタを許容する空間と、匿名で発言可能だが殺害予告はNGな空間とか)かなと思うけれども、そんなことをしたいわけじゃなくて、今の混沌たるウェブ空間を僕は愛している。こういう「出版ではOKだった」みたいなのは「ネタをネタと…」という精神と、近くて遠い。ウェブのネタ性を成り立たせている暗黙のルールの幅がますます狭まっている昨今に、プロの表現者たる人にその幅をさらに狭めようとする発言をされるとなんだかな、と思ってしまう。