残り35人を狙ったのはあかほりさとるだけなんじゃないかという話

話題のこの本。読んでないんだけど、読んだ人が書いたものから類推しつつ。

アフタヌーン新書 005 オタク成金

アフタヌーン新書 005 オタク成金

クラスに40人いたら、本を読む人間は5人しかいなくて、残りの35人でも読めるものを作ろうっていうのが始まりだった。そのために意図して行間あけてスカスカにしてたのに、それをまたギッチリにしちゃってさ。だから、また40人中5人しか読まない小説になってしまった。

うーん、それをやったのはあかほりさとるだかなんじゃないかと思ってしまった。
ライトノベル黎明期しかしらないのですが、(ライトノベルというかわからんけど)銀英伝とかさ、海外のD&D小説なんかの翻訳(ドラゴンランスとか)からロードス島が出てきて、富士見ファンタジアでスレイヤーズがでてくる(その前には風の大陸とかタイラーとか)あたりの時代に行間がすかすか=ラノベだったか、というと全然そんな記憶はない。むしろTRPGとか、架空戦記とか、そのあたりを従来の重厚な小説に比べたら軽い語り口で読みやすく、程度のものであったような。
もちろん、キャラ重視的な要素はあるとしても、昔から設定とか背景とかってSFなんかに比べても特に簡略化されていたわけではない…というよりむしろ差別化のためのアイディアは必ずあったようにも。
当時、ライトノベルが本を読まない人のためにでてきたのか、ということについては、だからとても疑問がある。ミステリで言えば赤川次郎的な機能がSF/ファンタジーにとってラノベ、という点は確かにあるのかもしれないけど、問題は赤川次郎は本読みにとっても普通に面白いことであって、行間スカスカがそれに対応するとは思えない。面白くて読みやすい、の中にしっかりとSF/ファンタジー(最近は特にそれだけじゃないのだろうけど)の面白さが詰まっていないとダメだよね。あかほりさとるの小説は雑誌連載でしか読んだことがない。買う気になれなかったから。なんでこれが売れるんだろうと疑問に思ったこともある。
むずかしくなった、というのは単に残り35人のためのマーケティングを誰もしなくなったというだけで、衰退という話ではないように思うんだよね。もしかしたら、SF黎明期に粗製乱造された、SFともいえない小説群と同じような役割を果たしていなくなったものはあるのかもしれない。だとしたら、それは衰退ではなくて、よいものの選別なんじゃないかなあ。どうにもジャンル化が難しいから総称としての「ライトノベル」は残っているけれども、その「ライト」な部分はもともと本質ではなかったんじゃないかとか。
本当に面白ければ、行間がスカスカだろうが、ギチギチだろうが、読み継がれるよね。