問題にされるべき本人の意志とは

「本人の意思に反して病院にいかないのは問題」の問題 - novtan別館の続き。
そもそも、問題にされるべき意思とは何か。医療を求める患者の意思とは「病気を治したい」であるべきなので、その意思に反して病気が治らない手段が「公に」認められていてはいけない。
例えば、高校がどうにも合わなくて退学してしまったけど大学行きたいって人に「うちの私塾に来れば高校の学習指導要領と全然違うことを教えるけど大学にいけるよ」と勧誘されて2年くらい通った揚句、受験票出そうとしたら肝心の受験資格がなかった、というのはほぼ詐欺。大検を受検する、という正しい手段があるけれど、それを教えてもらえなかったり「うちは資格を得られるから大丈夫」って言われていた、とかだったら尚更。もちろん、ちょっと調べればわかることを調べないという落ち度はあるにしても。
と言う例は、解決策がはっきりしているような話であり、それでもなお騙される人はいるだろうと思う。では、効果がはっきりしない医療の場合はどうか。この例えでいうと「大学受験できなくて残念でしたね」で全てが許されてしまうような話になってしまう。

というわけで、何よりも尊重されるのはまず「病気を治したい」という本人の意思だとすると、代替医療はちゃんと代替手段でなければならない。病気が治るという結果が全てなので、治れば何でもよいという考え方はある意味正しくて、そもそも医者にかからずとも治るようなものについてまったく効果のない代替?手段を用いることは結果としては間違っておらず、ただそれが医者にかからないと治らないものであった場合に悲惨な結果になるというだけ。スタート地点の判断と確率の問題。悲しいかな、医者に行ったとしてもスタート地点の判断は常に正しいものが選択されるわけではない。


しかし、本人の意思と言うのは厄介で。普通の医者は信用できないから、とか、科学的に合成された薬は怪しいからとか、ユダヤ人の陰謀がどうとかという人において、目的と手段はしばしば混同される。そのような判断のもと代替医療が選ばれた場合、治したいという目的に「標準医療以外で」なんていう言葉がついてしまったりする。あるいは「ホメオパシーで」。ここまで来ると、信仰に近い。盲信というべきか。

治れば何でもいい、という人に対して治らない手段を提供することは本人の意思に反していると明確に言えるだろうけど、ある種の手段を拒否する人に対して別の治らない手段を提供することは果たして本人の意思に反しているといえるだろうか。まあ、言ってもよいのではないかと思う。求めているのは治療の拒否ではなく、あくまで病気を治すことであるから。