政治と理性

何年か前、高校の部活のOBで盛大に集まったことがある。その時初対面の、だいたい20個ぐらい上の人かな…が、「新しい日本の国歌を作ったから是非演奏して欲しい」とCDを持ってきた。
この年代のOB特有の「XX高生ならみんなおんなじように考えてるよね」感には少々辟易する(その空気感はもう僕が高校生の頃には全くなかった)ものの、具体的な行動としては単にいちゃもんつけるよりもよっぽど良いとは思ったわけだ。


むろん、部活のOBの何人もが教師の職につき、起立をしていない。

僕は、その行為を個人の思想信条としては正直あほらしい(否定はしないが)と思う反面、個人の思想信条の大切さを体現する行為として、つまり、社会のルールは絶対正義じゃないことを身をもって教えるという点においては尊いと思う。もっとも、これが罰せられることがなければ教育的効果はあんまりないような気もしてしまうけれども。僕は学生運動以後、ノンポリの時代に学生時代を謳歌しているから、その政治思想に対する熱狂というものについて少し覚めた見方をしてしまう。

職業に課せられた使命と自分の思想信条が対立したときに、取るべき道はいくつもあって、それのどれが優れているかは自らの優先順位付けの問題であるからにわかに評価はできない。正直言って、「宗教上の理由」と一緒でそれが明らかに言い訳ではないのであれば、君が代を歌わない(演奏しない)自由くらいは認められるべきだとは思っている(馬鹿馬鹿しいという意味でも)。まあ、これは単なる個人的な評価の問題。

反面、そのことを自らの理性による信念以下の価値に貶めてはならないとも思う。つまり、生理的な機能がそこに生じるとき、それは強い感情の問題に転換されていると思う。
もちろん、政治思想にとって感情は端緒であり、大事なものだとは思うのだけれども、それを理性により昇華した結果として思想信条となるものだと思う。つまり、単なる嫌XXってのは政治以前だ。

君が代を歌わない、演奏しないことに対する処分がレベルアップすることによる自らの社会的地位(首にならないかどうか)を脅かすことへの不安が心身の変調の原因になる」ことと、「君が代を聞くことによって戦争のイメージが想起され(ここまでは良いとして)心身に変調をきたす」ことは全然違う話だと思う。後者には少なくとも自然には強い因果関係はないと思っている(君が代反対派を含め、個人的知り合いを見るかぎりは)。だとすれば、それはなんらかの条件付けの結果であるし、その条件付けは果たして理性的に政治活動を行うためのものなのだろうかという疑問を抱かざるをえない。それが、自らの信念の強さに精神が押しつぶされてしまった結果かもしれないことを考えると、嗤うべきではないのかもしれない。が、それはある種の犠牲者として扱われるべきで、盾に取るべきものではない。このようなともすればマッチポンプ受け取られがちな事例を前面に出すことは一過性の戦術としてしか機能しない。本来訴えたいのは思想信条の自由と個人の待遇をくっつけるなということだと思うのだが。その理由が「君が代を聞くと体調に変調を来すから」ではないのは明らかなはずなのだが。
そして、待遇が不安な人に対しては労働とは何かを考える人達は「形式的に立ったり歌ったりすることが個人の信条を損ねることはない」と安心させてあげるのもひとつの手段だと思う。信条は必ずしも社会的行為と一致している必要はないのだから。うたうことが信念を曲げるということとイコールであるという強迫観念さえなければ、待遇が不安な人は歌いながら内心で舌を出すことはできるし、それでもなお信念に従って行動するという強い心を持った人は自らの内心に従うことだろう。