美的センスにおける主観的見解とトートロジー

面白い事になっている。主にうんこ味のカレーとカレー味のうんこという点で。
時系列で。
西村清和『プラスチックの木でなにが悪いのか』:だらしない印象論と詰めの甘い議論によるトートロジーしかない本 - 山形浩生の「経済のトリセツ」
2012-01-20
「カテゴリー」を持ち出しても話は変わらない:西村「プラスチックの木……」書評への批判を受けて。 - 山形浩生の「経済のトリセツ」
2012-01-21

芸術(や美的感覚)の絶対的な部分を論理的に説明するのは非常に難しい。というのも、こういうものは主観の寄せ集めと刷り込みの産物であるから、黄金分割のようななぜか普遍的な感覚を除けば理由を述べるとトートロジー(つまり、良いものは良い)で終わってしまうことは多い。
だから、美的感覚を中心に据えた意見についてトートロジーだろそれって批判はちょっと野暮で、とはいえ、ソレ以外になんかねーの?みたいに思ってしまうのは仕方が無いところだとは思う。

さて、議論が噛み合っていないのは(まあ山形さんの方はぶれてないとは思うけど)、「本物そっくりのプラスチックの木」が議論する対象として正しくないからだと思ったりする。だって、山形反論に対する再反論の前提って言ってしまえば「本物そっくりだけど本物ではないから悪い」でしかない。これは、前提が暗黙的に違うよ、ということを示唆しているわけで、であるならば、「本物そっくりに作るのは無理」だから美的存在として異なるものなのである、という方がマシ。
比較的四季がきちんと体感できる日本人としては、色も変わらん落ち葉もない虫もつかない木に美的なものを覚えるか、という疑問はある。←この僕の感覚は「本物そっくり」ではないという暗黙の前提がある。

ぶっちゃけ、この議論は元の書籍にある、「たとえ完全なレプリカだとしても」という一文こそが問題の全てに思えてならないw山形さんが言うとおり、「カレー味のうんこ」を作るのはものすごく大変なのである。同様に、完全な自然の木のレプリカを作るのもものすごく大変だ。言うなれば、この議論は極端な前提同士のスーパーロボット大戦である。
経済的にも成り立たないであろうそれを元に美的感覚を議論しても仕方があるまい。読んでないけど、レプリカをレプリカと知らずに「見て」自然物と区別がつく程度のものなのかは評価されているのかなあ。

美的感覚を語るときに、トートロジーになってしまうのは主観的感覚の(あえていうけど)押し付けである以上、どうしても仕方が無いと思う。だからこそ、その主観的感覚をあの手この手で素晴らしいものとして表現して、相手の気づきを待つことが伝道者の役目であると思う。そこに論理は存在するかもしれない。そこに倫理も存在するかもしれない。ただ、「良いものは良い」は主張しやすいけど「悪いものは悪い」は美的感覚のみならず、一般的に説明しづらい。生理的な嫌悪を伴った醜悪さではなく、「良い」という主観に相対する「悪い」はそれもまた主観でしかないから。主観的な「悪い」を他人にわかってもらうためにはトートロジーでは力不足だと思う。

と、ここまで書いて思うんだけど、「プラスチックの木」が自然のコピーである必要性は実はない。だけど、あんな複雑な存在を人の手で作り出すことは難しい。自然が「自然」である所以はその唯一性にあると思うし、それはたとえ人の手による「加工」が加わったとしても失われない。全く同じように形を整えた木がすべて同じ存在であるかというと、それはシルエットだけの類似であるわけで。でも、引いて遠くから見たときに、群像としての風景から感じる美的感覚には差異がないと思う。
美的感覚を喚起するのは相対する視点も重要であり、自然物が偉大なのは、遠近共にそれを喚起することができる「可能性をもつ」からだと思う。なぜ可能性かというと、近寄るとがっかりするものが沢山あるからwという意味ではプラスチックの木も十分美的感覚を喚起しうる存在といっても良いだろう。
という、僕の主観。

まるで、電子楽器は楽器じゃないというような話にも思えてきた。結局美的感覚というのはそのものが与えられた機能性に対する視点を抜きには語れないのではないかな。つまり、「良いものは良い」であっても、そこには必ず前提はあるのだ。