薄っぺらい感動と作り話

なんだかプラスチックの木の話と実話風?感動話がリンクして話題になってたのね。
作り話だから感動が薄れるとか、そんなことを言ったら実話だって多分に作り話(主に事実・真実という点において)なわけだ。それがどのような文脈に置かれるかによって受けての感動度合いが変わるというのはよく考えたらおかしな話(ノンフィクショナルな音楽が存在しないというくらいの意味で)。

なんで「事実だと思って感動したのに作り話だった!騙された!」と感じるんだろうか。そんな中、最初からフィクションだと提示されていた場合に、僕達はなぜ感動するんだろうか。

感動するための前提条件を自分で設定しているだろうことが裏切られた気持ちにつながっているだろうか。

一杯のかけそば」を思いだしてしまう。あんなに「感動した!」人たちが手のひらを返したように「作り話だったなんて!」という。これって同情、憐れみ、安堵(自分はそうでなくてよかった的な)を裏切られたことによる揺り戻しなんだろうなあ。

いい話に感動する、というのはそんなに純粋な人間回路の発露ではなく、娯楽としての消費だからこそ、文脈が大きな位置を占めるのだろう。