「嘘」と「作り話」

あくまで僕の見解でしかないけれども、今回の諸々で憤慨している人がいるのは、「お話」が「事実ではなかった」ことではなくて、「実話」が「作り話」だったことなんだと思う。

しかし、「絶対にウソをつくことが許されない世界」というのは怖くないだろうか。

「ウソ」が大嫌いなインターネットの聖人たちへ - いつか電池がきれるまで

なので、今回の揉め事?と「嘘を付くことが許されるかどうか」は直接的には関係していない。

さて、インターネット上(に限らないけど)でつく嘘にはどういうものがあるだろうか。

  • 自分を守るためのもの(取り繕うもの、あるいは、ごまかすもの)
  • 他人を(悪意を持って)騙すためのもの
  • 他人を傷つけないためのもの
  • 冗談、戯れ
  • etc...

言っていい冗談と悪い冗談がある、とはよく言われるけどね。
インターネットでは嘘はバレやすい。というか、バレると思っていたほうが良い。もし、バレることが問題になるような嘘であるならば、つかないほうが良いのではないかと思うくらいはバレる。

受容されない「嘘」と受容される「作り話」の境界線を引くのは難しい。実話風作り話でも面白けりゃ良いという人もいれば、最初からフィクションを表明していなければ許せないという人もいる。何度か述べたけれども、少なくとも「お話」という文脈ではそれは受容されやすいし、「実話感動物語」という枠にある場合は受容されづらい。「お話」の場合、始めっから本当か嘘かの境界線上で揺らいでいるのに対して、「実話感動物語」はその需要のプロセスの重要な要素として「実話」があるからかな。
でも、そのプロセスは、自分が体験していない、他者の体験をどう評価するかのプロセスでもあるから、本来的には実話かどうかで価値が揺らぐことがすでに世間体バイアスかかっているよと思うわけで。

というあたりを考えると、無用なトラブルを起こさないで嘘をつくためには、文脈づくりが欠かせない。ぶっちゃっけ、2chの書き込みってだけでも作り話文脈(あるいは嘘かホントかボーダーライン文脈)に乗っているような気がしてならないし、そここそ「他愛もない」ゾーンなんだと思うんだけどね。

嘘をつくことの是非はこの際置いておくとして、やっぱり僕がいまいちピンと来ないのは、「お話」として受容した場合にそれが作り話であるかどうかに重要性があるのかということ。もしそれを受け入れたときに「さもありなん」と思っていたのであれば、それは現実に対する意識の表出であり、それをつり出されてしまったこと以外の不快なことなんて何も無いと思うんだけどね。
もちろん、そのことをきっかけに(例えばお話が行政とか特定の団体がひどいという話であったときに)事実に基づかない根拠で現実の世界に対する働きかけを行なってしまうような事態が生じたとしたら、それは罪のある(他愛のない、ではない)嘘だと思うし、僕として憤慨するとしたらそういう判断基準だ(あれ、よく考えたら話のきっかけになったのを読んでないんだけどそういう話だったりして?)

僕の判断基準はともかくとして、そういう中で「他愛のない」嘘は許容すべきというのが重要なのであれば、なおさら文脈は大事なんだろうなと、ちょっとここまでとは逆のことを言っている気もするけど結論づけたい。嘘が「他愛もない」嘘でいられるのは、そういう環境下に置かれているからにすぎなくて、ソレ以外の環境でつく嘘は、多かれ少なかれ、誰かに悪影響を及ぼす。

僕が実話風作り話を許容できているのは、受容する僕の側に「お話はすべて単なるエピソードとしてしか受容しない」という強固なルールがあるからなのかもしれないな。

ただ、嘘を「許容しろ・受容しろ」という圧力は嫌だけど、「俺は嘘は許さん」という表明をされるのもなんだかな、とは思う。文脈も程度もすっ飛ばした議論に意味があるとは思えない。

文脈が分断されがちなインターネットだからこそ、文脈を大事にすべきだと思うし、TwitterがTogetterにまとめられてしまうのもそういう意味があるだろうし、2chまとめスレの恣意的な引用が批判されるのもそうだろうし。

そうだな、「お話って本質的には真実でも事実でもない」という考え方に基づいて、常に評価していたから僕は問題ないと思っているんだろう。そこには「嘘」ははじめから存在せず、ただただ「(実話に基づいたかもしれない)作り話」が存在するだけなんだ。