代償に対する差別という指摘

一昔前の僕だったら頷いているんだろうなあと思ってしまった話。

本当に撮りたいのなら、どうしても撮りたいのなら、それがなんであれ、自分が何者であれ、撮るべきだ。

これはカメラの話ではない。性差別、性差による優遇を自慢しているだけの戯言だ。そしてそれを是としてみんなも率先してこの優遇を受けろと吹聴している悪文だ。

-O lunatico amou futebol- 西中島南方のセレッソ狂乱観戦記: カメラは生きろ、カメラ女子はくたばれ。

女性専用車両も逆差別だ、と思っていたし、未だにもうちょっとましなやり方はないのかとおもったりもするけれども、そういった「問題がある現実への代償として得た優遇」を差別という暇があったら問題がある現実を何とかしろ(少なくとも問題の当事者じゃない場合は)と思うんだな。

まあ、それはどっちの側にも言える話かなと思っていることはある。ようは、その優遇を当然の権利として行使する、ということは醜悪だし、もっというと、その代償をもってその現実を許容した。ようはさ、それによって解決したと思わせてしまったら現実はよくならないってっことだ。

で、これなんだけど、確かにそういう観点から見て問題がないとは言えないけど、いかんともしがたい現実の中で、今持てる自分の持ち駒を最大限活かすとこうだよね、という話でしかないようにも思う。優遇は積極的に受けていいんだよ。ただ、それが何の代償であり、本来はその何かをなんとかしなければならないという現実を忘れない限り。

難しいのは、そんな現実改善しなくても今の優遇のほうがいいじゃん、というのがままあること。最近の専業主婦への回帰とかもそういう話なのかもしれない(いや、専業主婦が優遇だってのは戯言か)。

そこのところの価値観を統一して現実の問題に相対するのは難しいよなやっぱり。性差(肉体的、社会的)を前提とした問題と代償についてなかなか意見がかみ合わないのは、それが自分の本来的な関心ごとではない限り、代償が十分すぎるほどあるからなのかもしれない。