広く伝えるときに守るべき線

やっぱりもやもやするので簡単にまとめてみる(@携帯)。
歴史認識における「事実」の認定も、科学知識における「事実」の認識も、ともに学習の成果によってなされる(あるいは確立、強化される。教化といってよいかも)。
通常の義務教育ではカバーされていないあるいは深くふれていない領域において、主観で語るのは難しい(一般的には教科書は客観的事実が記載されていると見なされるためカバー範囲であれば誤りを教科書のせいにはできる)。
実証的な(ある種の科学的な)アプローチを行う学問間では、その依拠している根本的な考え方は同一である。であるならば、客観的な証拠に基づかない理論による歴史修正主義(日本人の特性が云々、そんなに人はいなかったはず云々)者を非難する人はすべからく実証されていない反科学的(ホメオパシー云々、福島は危険云々)批判者を非難すべきであると考える。
仮にこの対称性が成り立たないのであれば、そこにはイデオロギーバイアスがかかっていると考えられる。あるいは、見ている客観的証拠に誤りがある。前者には場合によっては救いようがない側面はあるけれども後者には改善の余地がある。であるならば、後者に対して正しいものを学ばせようと言う努力はすべきだろう。
インターネットでものを言う素人は(僕もその一員ではある)当然専門家ではないという点で不勉強であるから、感情的、心情的側面が強調されることは多い。それはしかたないし、自分の考えを示すだけではなく、他者に伝えることを目的としている場合には一定の非難を浴びるのも必然だと思う。
問題かなと思うのはある対象(主に自分の専門や中心テーマに近いもの)については誤りを正すことに熱心(誤りを許さない)な人がそうでないものについての誤りに擁護的姿勢を見せることである。「素人なんだから仕方がない」「状況からいって感情的になるのは仕方がない」というのは情報発信を目的に発言している相手への評価軸としては誤りである(一方で単に感想や怒り・不安の吐露に対して糾弾するのはやり過ぎかなと思う)。
ここの対称性を失ってしまうと非難の動機がイデオロギーにあることが露わになってしまう。元々そうであり、自分が糺さなければならない正義以外どうでもよい、のであればそれでもよいけれども、その姿勢を見せてしまうことでその正義がもつ「客観的な正しさ」の幾許かは失われてしまうことだろう。
あるカテゴリーの評価に最低限の知識が必要だと考えて、それを持たない人を非難するのであれば、ほかのカテゴリーにおいて最低限の知識を持たないことで非難されている人を擁護することはすべきではないと思う。評価軸が違う部分での擁護が許されると考えているのであれば、自分のフィールドにおける、誤りに対する心情的感情的擁護は正当なものだと認めるべきだ。
もちろん、事実はそんなことで覆ったりはしない。けれども世論は脆弱である。脆弱性を後押しする行為に荷担することはしたくない。