悪くないと思うことと、悪くないと開き直ることの違い

世の中には理不尽なことはたくさんある。僕らの社会のベースである法律にしたってそうだ。非現実的な制限速度、演奏してもいない曲のために聴取される著作権料、タバコより害がないとされるのに重い罰則のある大麻
でも、それが社会のルールである以上、公然とそれを犯したことを誇るということはない。というかむしろバカかとアホかと。だから、「公正な支払いをしたいからJASRACは内訳を出せ」と要求したり、諸外国の動向を見極めて大麻解禁を慎重に考えろと主張したりするわけだ。決して、「著作権なんて理不尽!JASRACむかつく!だからコピーしまくります!」って言ったり、「大麻の害が大したことないのは明らかだから俺は吸うぜ」なんて言ったりしない。
制限速度は暗黙の「ちょっとオーバーはOK」原理に従い行動するかもしれないけど、だからといって「XXkmオーバーは大丈夫だからYYkmで走りました」とは公言しないし、大麻を吸う機会があったときに自己責任で吸うかもしれないけど、捕まって開き直って「大麻は害がない!俺は悪くない!」なんて言うのも見苦しい。
要するに、「思っている」ことと「やること」の間には天と地ほどの開きがあるし、自己責任においてやること自体は認められるとしても、その結果の如何にかかわらず、やったことを公言することは糾弾されてしかるべきことなんであると思う。自己責任という言葉はあまり好きじゃないけど、肯定的に捉えると、その行動の結果について、何がしかの社会的問題を引き起こした場合の社会的制裁に無条件に従うことを前提として自由に行動するべし、という規範とは考える。

インターネットに散らばってるいろいろなトラブル、炎上、事件、いさかいごとを見かけるたびにね、「自分だって同じなんじゃないの?」って必ず問いかけるんです自分に。罪状は違っても、究極のところで一緒のことを自分でもやってないか、って。やってたら人のこと指差せないんじゃないかって。罪とされていることの根っこを自分なりに理解して、それとおんなじことはしないんです。少なくとも誰にも言わないです、根っこの同じことを自分がやっているなんて。
(中略)
そんで俺の言いたかったことは、さんざん書いたけど本当に言いたかったことは、「人のことののしったり見下したりするのもいいけども、自分の根拠は、いざって時に出すつもりの言い訳は大丈夫でした?」ってことなんです。……やっぱり「みんなやってるから」とか「規模が小さいから」とかになっちゃいますか?

http://replica-love.jp/sayonana/archives/000719.html

というわけで、この話は僕のベースの考え方と大きくずれていないけど、決定的な点として「悪は公言した時点でゆるぎのない悪」である(ここでの悪はあくまで法律とか規制に対するもの)ことへの態度の違いがあるな、とは思う。自己責任で何か(主に法律に違反した行動)を行うことと、そのことについて「世の中の方がおかしいから間違ってない」と主張することは決して等しい行為ではない。
世の中のおかしいことを批判するのは大いにやるべきだと思う。でも、自業自得な結果についての開き直った態度を糾弾される、というのは社会としては健全だと思うんだ。だから、この「嘘」は、物事を考えさせるための装置としては、正しく機能しない。