実話風「いい話」が糾弾され、虚構新聞が擁護される理由

デマかジョークか問題で一番もやもやしているのはこの点。

以前、facebook2chから、実話風のいい話が出てきた時に、わりかし問題になっていました。前者はフライトアテンダントが客の差別的な言動に対して逆差別で応じた話(だいぶ昔に流布していた話ではあった)、後者は結局内容を読まずじまいだったけどなんかいい話?
で、前者なんて、情報リテラシーの高い諸氏から見れば風刺的アメリカンジョーク以外の何ものでもないんだけど、デマぶっこいてんじゃねーって責められてました。なんでだろう。

確かに、虚構新聞の記事は、どこかで嘘だと気づくことができる可能性は高い。でも、誤って(無批判に)いい話または悪い話として流布させてしまう点では大して「いい話」と変わらないと思うんだよなあ。

両者の違いは「嘘であること」のわかりやすさの違いなのかな?だとしたら、それは受け手側のリテラシーに過度に依存しているとも言える。ちなみに、個人的には「たどれば明記されている」というのは大きな違いだとは思う。それで真偽を判断できるのがインターネットを使う資格である、というのであれば擁護派の声は納得感がある。ただ、ちょっと専門外の話になると原典に当たらず真偽を判断せず物事を広める人が多い現状で本当にそこに依存していいかという疑問なわけですね。どんなに放射脳って揶揄したって放射脳的考え方を受け入れる人は多い的な。

まあ、僕だって虚構新聞ではないけど騙されたことがあって、あ、それをその文脈で広めちゃまずいな、と思ったから言っている部分はあるけど。

現実に嘘のターゲットになっている登場人物がいない話が責められ、実在の人物の発言が捏造される話が擁護される、というのがどうもダブスタに思えてならないんだよな。
文脈がない、嘘だということがうたわれていない、というのが前者の問題なのであれば、虚構新聞が「これは嘘です」と言っていることが、目にする人に伝わるか、ということの強度が今回の問題の本丸であって、擁護している人はそれが十分だといい、非難している人はそれが不十分だ、と言っているだけの話だろう。つまり、今回の問題は、閾値の問題だから原理的な話をしても咬み合わないんだろうと思ってるし、人それぞれの基準が恣意的だから、うまくいかない。
というわけで、もうこの件はこれにて結論として終わるつもりだけど、どこまでがジョークでどこまでがデマで、というのは決めがたいという点から、やっぱり受け手側のリテラシーが一番大事だし、かといってそれに甘えて紛らわしいことを是とするのも志としては低いよな、というのが僕の考えです。あくまで、受け手側のリテラシーは自衛のためであって、逆に言うと、出し手側のリテラシーも自衛のための部分はあるんですよ。そこを踏み越えた時に、こういう閾値の合わない人たちからの非難が殺到するのは当然の帰結と捉えるべきです。

これまでのエントリでいただいた批判の中に、「こういう人が言葉狩りをする」的なものがいくつかありましたが、そのことは重く受け止めるべかと思っています。閾値の話をするのはそういうことだと思う。

ただ、それならなおさら「いい話デマ」が原理主義的には受け手側のリテラシー問題になっちゃうはずで、なぜあれがあんなに非難されたか今回の問題と照らし合わせると未だによーわからんのですよね。

そんじゃーね。