労力の非対称性と議論のマナー

http://d.hatena.ne.jp/CAX/20120912/zaregoto
あることを証明するのとないことを証明するのは同じではと言う疑問かな。
一般的に、とくにはてな村でよく使われる悪魔の証明は、あるものがないことの証明をせよという意味ですが、確かに方法論は一緒。ただ、可能性的に労力がものすごく不公平。
可能性的に、というのはどう言うことか。あるものがあることを主張する人がそれがあることを確信していても確たる証拠がない時に、それを調査する労力がないことを調査する労力と同じになることはありうる。例えばネッシーの探索とか。
一方で、あることがわかっているどころかそこら中で見かけるものをあることを証明するのは実に簡単。自分の目で見るまで信じない、と言う人にはすぐ見せてあげれば良い。
一方で、ないことを証明するためには常に最大限の調査をしいられ、それでもなお調べ漏れがないことを証明するのは困難です。

さて、これが問題になるのは大抵ニセ科学的な問題。たとえば、ホメオパシーにおいてプラセボ以外の効果があるのか。一般化してxxはyyの効果がある。ここでのポイントは、ある、という人が、それが絶対正しく、今そこで起きていると主張している場合。その場合は、事実が明白なんだからその証拠を示せば良いのです。しかし、あることを疑問視している論的に対して、しばしば、ないことの証明を求めます。いや、お前があるって言ってんだからそのことを証明するのが手っ取り早いだろと。エビデンスあるから言ってるんでしょ?心ある人はそう思いますよね。しかし、ないことが証明できない限りある可能性はあるのだ!現代の科学では云々と言われてしまいます。はいはい疫学勉強してからきてね〜と言いたいところです。
ということで、悪魔の証明というのは非常にアンフェアなものですね。だから、何かがあることを主張する人が、それを否定する人に対して、じゃあ、ないことを証明してみろ、というのは議論のマナーに大きく外れていて、ともすればあることを証明できないから逃げを打っているんだと疑われがちで、実際そうであることが多いのですね。
売り言葉に買い言葉的に、つい言ってしまうケースもあるでしょうけど、それは悪魔の証明ですねと指摘され、実際にその類のものであった時にその要求を取り下げないような人は信頼するにたりません。もっとも、そう言う人はそれが悪魔の証明ではないことを必死に言い訳してきてうざいことも多いですけどね!