スルー力の非対称性について

最近は死語になりつつあるスルー力。ウェブ上には無意味な批判なども沢山あるので全部に目を通すのではなく、適度にやり過ごすことが必要だよね〜というニュアンスで、アホとまじめに戦う炎上案件なんかはスルー力が足りないせいで起きたとよく言われたものです。
さて、未だにエゴサーチ&RT攻撃問題がくすぶっています。だいぶ下火にはなってきたけど…
これ、スルー力の観点から見るとどこにスルー力が足りないのでしょうか。

  • こっそり批判をした最初の人
  • エゴサーチして悪口見つけたけどついそれをRTしちゃう批判された人
  • フォロー先が批判エントリRTしたのに反応して炎上させちゃう人たち

最初の人はともかく、後の人たちも従来の基準ではスルー力が足りないと言われるたぐいじゃないかと思うんですが、あまりそういう批判を聞いたことが無いですね。

違いはあります。かつてのスルーしなければならないものは「売られた喧嘩を買わない」に近い形がほとんどでした。それは、ブログというフォーマットの中で、トラックバックやコメントでの応酬が中心だったため、ダイレクトに相手と対峙していたんですよね。今は、直接的に絡まないことが多いけど、エゴサーチで「これ喧嘩?」であえて買って出るような…あれ…
昔だってエゴサーチはあったんだけど、それなりの発信をしている人はトラバやコメントをやっつけるので精一杯だった気もします。今、陰口をわざわざRTするという行為は、僕から見るとスルー力が足りないとしか思えない。わざわざ見つけて「RTだけ」するくらいなら、RTしてから積極的に戦いますよ。そうじゃなかったらRTするだけ無駄。観客も本人に戦う気がないのにRTにRTを重ねる。

と、ここまで書いてちょっと気づいた。ブログやらのフォーマットで書くことって「エントリ」として何かを表明しなければならず、結果として「文責」の意識があったように思えます。一方Twitterはつぶやきであり、まとまりも一貫性も礼儀もそれなりの範囲でしか求められていないと思っている人が多数いるのではないかな。必然的に、ブログだと相手も内容もある程度吟味する必要があって、そのためにはスルー力を発揮しなければならない。RTだけして終わり、みたいなエントリってなかなか書けないもんね。twitter(やtumblr)はそうでもないから、スルーという意識が希薄になるというか、RTしている当人的にはまだ何もやっていない意識がある位のものかもしれない。それに真面目に反応しちゃう方がスルー力が足りないのかもね。

まあ、RTしたことによって、陰口がやっつけられちゃうのはウェブの的には正しいので文句言うこともないけど、取るに足らない陰口をいちいちRTするのもスルー力が足りないなーと思うし、それを元に袋叩きする人たちもスルー力が足りないなーと思うし、一億総スルー力不足時代がやってきているのかもしれないなーと思うと感慨深いです。