社会問題について答えを持っておくことの重要性

領土問題に全く関心が持てない件 : まだ東京で消耗してるの?
無関心を表明するだけでたくさん注目を浴びるというのはまあすごいことだとは思う。
人間、関心を持てる範囲はどうしたって限られる。すべての面において関心をもて、というのは難しい。ただ、社会で生きる一員として、社会問題に関心を持つことは重要なことだし、それについて、何らかの形で一旦答えを持っておくことも必要だと思っている。
僕は尖閣問題や竹島問題について積極的に語るだけの理由を持たない。でも、それが今の社会の重要な課題であり、政治の焦点でもある以上、無関心ではいられない。なぜなら、来るべき選挙で投票することに意義を持たせたいから。民主主義社会の一員である以上、投票するという行為はある程度自分の社会に対する意識の反映になってほしい。
現時点では、僕が思うことは他人に訴えかけるようなレベルになっていないけれども、他人に問われた時に「どうでもいいよ」って言わない程度にはまとまっている。問題の重要度が上がればもう少し考える時間も増えるだろうし、もしかしたら解決しちゃうかもしれないからそれはそれで良いことだと思うけど。

で、思ったのは、社会の出来事についてすべてをフォローできるはずはないんだけど、知ってしまったことについて無関心を決め込むのは良くないなあってこと。関心が持てない、というのは僕はNGだと思っている。積極的にコミットできない、というのは良いと思うんだよね。個人のリソースには限界がある。その人の価値を活かす方向で力は使うべき。でも、社会を構成している一員として、そのことを全く無視するというのは無責任だと思うし、そういう人ばかりになると民主主義ってのは成り立たない。無関心でいることは、政治行政について「だれでもいいからお任せします」という宣言でしかないし、自分の積極的関心のある分野にだけコミットしている政治家に投票した結果、大多数の人が問題があると思っている方向へ動かしてしまうことを否としない、ということになってしまう。
それが、趣味とか思想とか、全く個々で独立して成立しうるものの話なら「関心がない」は成立すると思うんだけど、社会の問題については、少なくとも「知らない」「積極的関心」「消極的関心」しかないと思うし、知った以上は何らかの形で答えは持っておくべきだと思うんだよね。正解なんてないんだから自分として、だけどね。

その答えが「どうすればいいかわからない」でもいいと思うんだよ。これからみんなで考えて行かなければならない問題だし。もちろん、政治家に丸投げってのもひとつの見解ではある。ただ、それはそれでその問題にコミットした、ということにはなると思うんだな。